2025/11/27

群れ離れ孤独な鷹の渡りけり

 

 



 またしてもAI先生に画像を作ってもらった。


 最近ズルしてこればっかりに頼っているような気がする。だけれど、出来上がった画像は

なんだか決まりきったような、稚拙な絵であるような気がしないでもない。もっとも、使う

アプリが「無料」だとか「お試し」などばかりだから、AI先生もしっかり手抜するのだろう。


 それでAI先生作成の絵は、ちょっとニュアンスが違うなあ! としばしば思うけれど、なに

しろこっちは一滴も絵が描けない、わがままを言っても通らない。それが嫌ならAIの画像

生成をしっかり勉強して、思うように作成してもらうことだが、それは面倒くさい。



 
 それにしても鷹が渡りをするとは知らなかった。冬場餌が少なくなると暖かい地方へ移

って行くらしい。その時、エネルギー節約のため、上昇気流を捕まえて、大方は群れになっ

てその上昇気流を転々と渡りながら、遠くまで飛んでいくものらしい。


 しかし鷹とか鷲とか、猛禽類は普段群れを成さないように見える。一羽づつ孤独に暮ら

しているイメージが強い。それがどうして渡りの時だけ群れをつくるのだろうか? 「わしゃ

群れるの嫌じゃけん一人で行くんじゃ」という奴もいるだろうと思って句にしてみた。




 更に日ごろ鷹や鷲のような鳥を見かけることはほとんどない。昔、三浦半島へ行った時

に、ピ~ヒョロロ~とトンビが上空を舞っていたのを見た程度だ。当地方でよく見かかる

のは、ヒヨドリ、ムクドリの大群、カラス、スズメ、ときどきメジロ・・・ぐらいかなあ。


 鳥もよく知らんし、植物も昆虫もほとんど何も知らない。威張ることじゃないけれど、こ

れが大いなるコンプレックスである。シテ―ボウイじゃない田舎育ちがこういう事でどうす

る! と思うけれど、こうなっちまったのを今更どうにもできん。アキラメテいる。





2025/11/26

山茶花や散って華やぐ寺の門



 

 隙間に植えてある山茶花がようやく咲きだした。


 「ようやく」というのは、確か例年11月の声をきくと、そそくさと咲きだしていたような気が

するから、山茶花とは11月の花だとばかり思っていた。12月の声を聞かないと咲かないと

なれば、温暖化の故か否かそれは知らないけれど、認識を改める必要がありそうだ。


 山茶花の画像を探しまくったが、遂に見当たらないので、AIさんに作ってもらったらこん

な絵になった。まったくの架空の産物だけれど、なんとなくイメージに合っているから、これ

でいいことにした。山茶花は散り敷いて地面を彩る色合いが華やかだと思う。



 黒っぽく見えるほどの濃緑色の葉っぱから、薄いピンクの花が楚々として湧き出すよう

に咲いているのを見ると、きれいな花だナと思う。これがぽつりぽつり咲いていてはダメ

でわらわらと木や葉っぱが見えないほど咲いているのがいいようだ。


 椿と違って、花びら一枚一枚が、はらはらと無風の冬日に散り敷くさまもなかなかいい。

散り敷いた地面がぱっと華やかになって、冬の花の少ない時期に、こころ弾む思いがす

る。どちらか言えば、木で咲いているよりも散った花びらが美しい。



 11月は月始めからインフルエンザと肺炎で、およそ半月も寝て過ごすこととなった、言わ

ばクソッタレな月であった。それでどうも、たちまち体がサボり癖を発揮しているらしい。昨

日用事があって横浜の戸塚に出張ったが、駅までの道、長い乗り換え道、息が切れた。


 この分だとたちまち足弱で歩けなくなる恐怖が、背中のあたりから滲み出して、これはい

かん、是が非でも、なんでもかんでも、散歩を復活しなくてはいかん! と思い知った。寒

くなる時期で、かつ面倒くさいから、出来るだろうかどうだろうか⁇


 ま、のんびりゆったり始めようか。




2025/11/24

落葉踏む音に来し方想い出し

 



 落葉の道はどこまでもカサコソ音がついてくる。


 どこまで行ってもカサコソだ。乾いた音なので、自分で自分の足音を聞いていて嫌な感

じはしないが、自然とこころの内側をのぞき込むことになる。これはまあ、楽しいかと言わ

れれば、あんまり楽しくはない。ろくでもない来し方であったが、今更仕方がない。


 今更仕方がないから、ろくでもない方はうっちゃらかして、なるべく楽しいようなことを思

い出そうとする。こっちの方も、まんざら無くはないので、なけなしの思い出を引っ張りだ

してみることにしている。そうするとだんだんこころは楽しくなってくる。


 そんな数少ない楽しい思い出は、やはりそこいらじゅうを歩き回ったそれぞれの記憶だ

ろうか。外国を一滴も知らないから極めて貧相な、貧乏くさい記憶しかないけれど、それ

でも今思うと貧相でも自分にとっては、貴重な記憶だったなあと思う。



 栃木県を歩いているうちに、下野古代国府跡という場所に偶然行き当たり、へえ! と

言って興味の赴くまま歩き回っていたら、すっかり時間を過ごしてしまい、さて日が暮れて

最寄り駅まで12㎞、真っ暗な街道道をとぼとぼ泣きながら歩いた思い出。


 阿武隈川の土手を歩いていて、知らぬ間に熱中症もどきの状態なってしまい、民家の庭

先の自販機を見つけて水を補給し、木陰で数時間、死んだようにぐったりとなってようや

く回復した、なんともばかばかしい思い出。(よく死ななかったよなあ)


 仙台駅の一つ手前までたどり着きながら、足がストライキを起こしていう事を聞かず、な

だめても透かしても、じっくり休んでもどうしても動こうとせず、泣きの涙で諦め、仙台駅

を眼の前にしながら無念の撤退、今でも悔しく思い出される。



 貧乏性だから、もうこれからも一歩たりとも外国に足を踏み出すことはないだろうが、そ

こいらの近場をふらふらしたい気持ちは強い。そうして気分だけは放浪している気になっ

ていたい。客観的はタダのしょうもない散歩でも、主観的には放浪だと言いくるめたい。 


 そうして一人勝手に自己満足し、人がなんと言おうと、かってに自己満足した方がカチ

だとうそぶいていようと思う。だあ~れも褒めてくれないのだから、せめて自分だけでも

自分を肯定しようと思う。そうしないと自分が立っていられない気がする。




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