秋の空が清々しく晴れて稲刈。
いくらコンバインで刈り取ってしまうとは言っても、やはり収穫の喜びはひとしおではな
かろうかと御推察申し上げる。五月に苗を植え、無事に育てよと我が子のように思い、梅
雨時の大雨を心配し、夏の日照りにおろおろし、9月の台風を恐れ、やっと収穫。
やれやれと、どれだけ安堵するか、お百姓でないのでその機微はうかがい知れずと言え
ど、まあ稲刈りは特別なものであろうと思う。言ってみれば、一年の計は田植えにあり、一
年の収めは稲刈りにあり、というようなものではないかと推察する。
子供のころ、友達の家の田植えの手伝い(専ら邪魔をし)に行ったことがある程度で、そ
の後の苦労と心配は、むろんのこと心の片隅にもとどめることはなかった。そうして稲刈り
の時期ともなれば、ひたすら野っぱらをすっ飛んで歩き、栗なんぞを拾って遊んでいた。
だから作物を育てることの、ほんとうの苦労やら心遣いやら心配など、なにも知らずにノ
ホホンといつの間にやら大きくなってしまった。今にして思えば、仕事はなんでも苦労がつ
きものなのだから、稲を育てて米にすることが、なにほどの苦労かと思う。
作物を育て収穫するのは、なんと言っても自然が相手のこと、そしてその自然は決して
こっちの思う通りにはならないこと、場合によっては手の施しようもなく、ただおろおろ見
守るしかない仕事であってみれば、工場で品物を作るのとはわけが違う。
その苦労と心情を慮りもせず、ごく当たり前の顔をしてコメを買って食ってきた。ここへ
きて、米高騰のあおりを喰らって、遅まきながらそういうことも頭に浮かぶようになった
が、しかし、である。お百姓さんの苦労を思いながら、コメは備蓄米と決めている。