去年の気候は覚えていないが、毎年よ、立春過ぎて寒いのは、だったように思う。
そうすると、毎年々々同じ思いに煩わされながら、その日その日を送っているらしいこと
になる。去年もこうだったし、今年もまたこうだ、ということとなり、少しも進歩というものが
ないような気がする。これをまあ、ん十年も続けてきたのかと思うとうんざりする。
かと言って、こういう些末を離れ超然として日々を送る、ということはできそうもない。
日々の晴雨、寒暖に心を執られ、嘆いたり呻いたり、まるっきり支配されながら、どうにか
過ごしているこの身である。これからもそうするしかなさそうだから、そうする。
それはさておき、ここのカルガモだが、確か初夏のころ街中から引っ越してきて、この水
辺に落ち着いた一族であるらしい。街中の市民会館の庭の小さな池で生まれ、母親に引
き連れられて延々2㎞あまり、安住の地を得たらしい、とテレビ報道を見た気がする。
その時、なにも街中の喧騒で卵を産まなくとも、最初からこの近くで過ごしたらいいだろ
うに、とそう思った。まあ、カルガモにもいろいろ都合があってそうするのだろうし、そうし
た方が生きながらえるのだろうと思う。なにしろ動物の生はうまくできているはずだ。
ともあれ、生命体が生き延び世代を繋げてゆく仕組みは、驚異であって、これほど不思
議に思われることはない。殊に細胞や遺伝子の振る舞いとその仕組みは、神というものが
存在して、そしてその神が設計したとしか思われないほど、合目的的である。
ましてや、一個の目に見えない生命体が連綿と続いて、いま地上をにぎわしている動植
物になった、などとても信じることさえできない。それもみな今いる環境に適応した結果、
と教えられ、もしかして暑いの寒いのぐずぐず言っているというのも、これは生き物として
の運命なのかもしれない、などと思ってみたりするのだ。
しかし今日はなんだか温かい。