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2026/02/13

水鳥も水に入らぬ春寒し

 



 去年の気候は覚えていないが、毎年よ、立春過ぎて寒いのは、だったように思う。


 そうすると、毎年々々同じ思いに煩わされながら、その日その日を送っているらしいこと

になる。去年もこうだったし、今年もまたこうだ、ということとなり、少しも進歩というものが

ないような気がする。これをまあ、ん十年も続けてきたのかと思うとうんざりする。


 かと言って、こういう些末を離れ超然として日々を送る、ということはできそうもない。

日々の晴雨、寒暖に心を執られ、嘆いたり呻いたり、まるっきり支配されながら、どうにか

過ごしているこの身である。これからもそうするしかなさそうだから、そうする。



 それはさておき、ここのカルガモだが、確か初夏のころ街中から引っ越してきて、この水

辺に落ち着いた一族であるらしい。街中の市民会館の庭の小さな池で生まれ、母親に引

き連れられて延々2㎞あまり、安住の地を得たらしい、とテレビ報道を見た気がする。


 その時、なにも街中の喧騒で卵を産まなくとも、最初からこの近くで過ごしたらいいだろ

うに、とそう思った。まあ、カルガモにもいろいろ都合があってそうするのだろうし、そうし

た方が生きながらえるのだろうと思う。なにしろ動物の生はうまくできているはずだ。



 ともあれ、生命体が生き延び世代を繋げてゆく仕組みは、驚異であって、これほど不思

議に思われることはない。殊に細胞や遺伝子の振る舞いとその仕組みは、神というものが

存在して、そしてその神が設計したとしか思われないほど、合目的的である。


 ましてや、一個の目に見えない生命体が連綿と続いて、いま地上をにぎわしている動植

物になった、などとても信じることさえできない。それもみな今いる環境に適応した結果、

と教えられ、もしかして暑いの寒いのぐずぐず言っているというのも、これは生き物として

運命なのかもしれない、などと思ってみたりするのだ。


 しかし今日はなんだか温かい。




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