コスモスが揺れる里道を歩くのは気分がいい。
里の中の道そのものが気分よく歩けるのに、そのうえコスモスが色とりどりに咲いて、ゆったりと風
に揺れ、空は青いし陽は穏やかだし、これ以上の気分の良さはない。たぶん里道がいいというか、田
舎に惹かれるのかもしれない。田舎をひとりぽつねんと歩いていると胸が広がっていく心地がする。
逆にたまに都内に出ると、ビルの谷間を歩いていてだんだん胸に蓋をしてしまうような気分になる。
それと自覚はしないのだけれど、どうしても気持ちが構えてしまう。だれも獲って食おうという人はい
ないのに、全身を鎧で固め、こころにしっかりと錠をかけ、ぼんやりした気分を覆い隠そうとする。
どうしてこんな按配になってしまうのか、自分でも分からないが、都会では”田舎者丸出し”がいま
だ治らず、そのため身構えてしまうのではないか、反対に、田舎の里道では、幼少のころから身に沁
み込んだ田舎の風景に”思わず郷愁”が湧き出してしまうからなのではないかと思う。
しかしながら、都会生まれ都会育ちの人も、なにやら田舎に憧れるようで、これがよく分からない。
都会育ちの人に田舎への郷愁はない筈だが、YouTubeを見ると、田舎暮らし、山里古民家再生、自
給自足生活、などなどわらわらと出てくる。たいがいが都会で生活していた人たちだ。
例えば。都内生まれ都内育ちのまだ若い女性が、あるきっかけで、ふと田舎に行って病みつきとな
り、今では古民家に住み、無起耕で野菜を作り、糠味噌をこね、囲炉裏を焚いて、まるで戦前の田舎
の暮らしそのままの生活をしている。それも、嬉々としてその生活を楽しんでいるようなのだ。
こうなると、田舎への憧れは、山育ちの単なる郷愁でもないように思えてくる。ここで思い出すの
は、養老孟司の口癖、「参勤交代論」=「都市と田舎の往復居住の勧め」。なぜそれが必用かと言え
ば、システム化、効率化され、感覚ではなく脳「意識」で考えることを優先されがちな現代において、
地方社会や自然の中に身を置くことが必用なのだ、ということらしい。
都会育ちが、あえて田舎に住みたがるというのは、いよいよ養老孟司さんの愁いが現実になったの
だろうかとも思える。ただし、田舎に住みたがる都会人は、数とすれば少ないだろうから、あながち養
老さんの警告に従うようになった、とは言い切れまい、この風潮はいったいなんなのだろう。
まあ、田舎歩きが楽しけりゃ、自分はそれで十分。