2026/04/08

春宵や風止み時も止まりけり

 



 暑からず寒からず本当にいい季節となった。


 野に若草の成長を見、山に若葉の輝きを見る。とことこと野道のどこを歩いても楽しい

が、草や木の成長変化が早すぎて、多少気ぜわしいような、もっとゆっくりしたいような、

そんな気持ちもしないではない。それが春の宵の時刻に現れる。


 たいがい一日中少しは風が吹いていて、枝先を揺らしたり、草をなびかせたりしている

ものだ。そんな風に何か動くものがあると、時の流れを感じ取ることができる。ところが、

春に宵のひととき、風がぴたりと止み、葉っぱ一つさえ動かずにじっとしている時がある。



 こんな時はそれを眺めていて、時が止まったように感じる。カチカチとリズムを刻んでい

た時が、突然ストップし、凍り付いたように動かなくなった。草もなびかず葉も揺れず、あ

らゆるものが微動もせずにそのままの姿を保っている。まるで異世界のようである。


 そして脳裏に浮かぶのは、”春宵一刻値千金”。もしかして、今目の前で時が止まってい

る状態を、”値千金”と言ったのではあるまいかと思料する。しかしながら、この感覚はきわ

めて個人的なものだろうから、他の人に説明しても分かってもらえないに違いない。



 不思議なことに、この感覚を抱くのは、春の宵だけである。夏、秋、冬、同じように風のな

い宵があったとしても、宇宙の動きが止まっている、という感覚は到底持ちえない。このよ

うな極めて感覚的人間は、他の冷静なる客観的な人と比べ、なにかと面倒くさいようだ。


 それでも、春の宵口、サンデッキに出てぼんやり眺めていると、この風が止み、ときが止

まる現象に包まれるときがある。そして”値千金だあ”とつくづく感じられ、なんだかとても

気分がいいのだが、そういう感覚もこき交ぜて、全体としてはどこかに流れてゆくらしい。




2026/04/07

ランドセルばかり目立って入学す


                            (AIによる)

 小さい一年坊主が入学してくる。


 まるでランドセルが歩いてくるようだが、その前には胸をそらし、肩を怒らせた新入生

が、威風堂々歩いている。帽子も、制服も靴も、何もかもぶかぶかだが、これは仕方がな

い。「直ぐ大きくなって着られなくなるんだから、もう‼ 」とお母さんが嘆息する。


 堂々と入学したのはいいけれど、何もかも初めてのことで、何をどうすればいいのかさ

っぱりわからない。若い、優しい、女先生の言う通り、くっ付いているしかテがないのだけ

れど、先生は慣れたもので、できる子できない子、愚図る子泣く子、み~んなひっくるめて

実にうまい具合に面倒見てくれる。今から思えば天使のような存在だったなァ。



 小学校で6年間育つと、もうがらりと変わってしまう。もう一年坊主のチビの俤は微塵も

なくなってにゅろにょろと背丈が伸び、考え方も行動も半分は大人になってしまう。そうし

て、お父さん、お母さん、そこから離れてしまって、何を考えているのかわからない。


 特に女の子は、卒業するころには羽化して一丁前の娘になってしまうだ。精神がしっとり

と落ち着いてきて、もう飛んだり跳ねたりをあまりしなくなる。大人を見る目もなにやら大

人びてくる。このままもう旅立ちの時かもしれない、二度と再び戻らない大人への旅。



 一年坊主はちっちゃい、と言ったけれど、この頃は日本人の体格がごろりと変わったらし

く、一年坊主必ずしもちっちゃくないかもしれない。ランドセルばかりが目立った入学式は

昔年の俤ばかりかもしれない。それはもう、電車に乗れば一目瞭然、周りが壁だらけだ。


 大谷翔平さんは、あのデカイ外国人の中でも一つ頭抜けている。大いに誇りに思う。今

はそこら中に180cmの男がごろごろしている印象だし、170cmの女子がわらわらしてい

る。その谷間に挟まって少々息苦しいが、もう日本人を「倭」なんぞと言わせないぞ。




2026/04/06

滔々と春を流しゆく堰の水

 


 
二か領用水を歩く。


 家康の時代に開削された(1597年)農業用水だが、今は遊歩道が整備され川辺の散歩

道なっている。多摩川の稲田堤付近と登戸付近から取水し、稲毛領と川崎領にまたがっ

て、おおむね多摩川の流れに並行し、南東に流下している。延長距離32㎞。


 この日はどこを向いてもキッパリと晴れ渡り、いたるところで花が咲き誇り、優しい風が

そよそよと吹いて、だれが何と言おうと春真っ盛りの一日、日ごろのこころがけがよろしい

らしい。休日ではなかったが、岸辺をそぞろ歩く人も多く、晴れて天下に春が来たのだ。



 稲田堤付近の取水口から歩き始める。多摩川の河原の眺めが大変に美しい。青い水が

ゆったりと流れ、岸辺の土手は若草が萌え、土手には桜がこんもりを枝を揺らしている。

吹いてくる風さえ青く染まっているように感じられる。若者男女4人、もう裸でSUP。


 用水路に沿って歩いてゆくと、川の中に小さな棒杭の堰や、水の分岐口が残されていて

昔を偲ばせる。ただこれらの大部分はもう失われてしまい、その記念碑だけが建っている

のが多い。川の中にも遊歩道が整備されていて、桜吹雪を浴びながら歩く人もいる。




 向ヶ丘遊園駅付近から、登戸の取水堰へ行く。どちらの取水堰も多摩川本流に直行して

堰を作り、真横に水を引き込んでいる。二つの用水路はしばらく別々に流れ下り、久慈の

駅近くで合流している。ここからしばらくは登戸側の用水路を歩く。


 先ほどの稲田堤側用水路と違って、川辺を大変きれいに整備してある。流れの上に平ら

な遊歩道があり、人々がぞろぞろ歩いたり、車座になって宴会したり、本格的な花見の宴

を開帳している。途中に川崎市緑化センターの公園があり、大休憩ができる。 



 そうして遂に、久慈の円筒分水までやってきた。水争いが絶えなかったので、昭和16年

円筒分水が造られた。二つの用水が合流して水かさを増した用水は、平瀬川の川底を潜

って先の方の円筒へ導かれ、そこで湧き上がって周りに平等に流れ、円周の切り欠きの比

率によって、必要な水路に必要なだけ分配されたという。


 傾きかけた陽ざしの中で、大きな円筒分水は素知らぬ顔で静まり返っている。し烈だっ

たという水争いはこれにより解決したのだろうか。今はもう、円筒分水も、用水路そのもの

も、御用済み、特段の働きをしていないが、その歴史は積み重なっている。





2026/04/02

いち日を歩き疲れてなお日永

 


 

 支流の小さな川だけれど、土手に桜のトンネルがある。

 

 両岸に植えてあるので、どっちを歩いても桜の中を通って上流に向かうことになる。この

ころの陽射しも掛け値なしに明るいが、その光が桜の中に入って乱反射すると、どこを見

ても眩しいほど世の中が明るい。風もないのに、花びらがひらひら宙を舞っている。


 染井吉野の並木が500mほど続いてから、次に枝垂れ桜の並木になる。赤い小さな花

びらを着けた枝がゆ~らりと風に揺れている。土手道を砂利を踏んでゆっくり歩いて行

。土手の脇に畑があり、眩しい光の中で、人々が畑の手入れに余念がない。



 桜の並木が途切れ、空が開けて青空が見える。向こうの丘陵が見えてきた。若葉が芽吹

き、それはまだ緑に染まらない、薄茶色のもあもあした霞のように見える。もう少しすると、

木の葉が萌黄色に染まり、羽毛のように柔らかく陽の光を反射する。


 土手道には、花桃の大きな木が現れる。桜をしのいで一層艶やかに豪華に咲き誇る。時

にはミツバツツジの大株も見え、花桃と饗宴を繰り広げる。陽光はどこまでも明るく温か

く、春がいっぺんに怒涛のように押し寄せてきたかに思える。



 支流のだいぶ上流まできて、神社の一角に出た。周りに畑が広がっている。この一角

に、今まで見てきた染井吉野、枝垂れ桜、花桃、ミツバツツジ、が勢ぞろいし、それに加え

菜の花、連翹、芝桜、そして丘陵の新緑、ぜ~~んぶひっくるめて咲いている。


 もうだいぶ歩いたはずだけれど、畑の人はまだ働いているし、日もまだ陰りそうに見えな

い。気付かぬうちに、陽が勝手に永くなったらしい。こうなってくると、ふと気づいたら、とた

んに陽が落ち込み、急激にうそ寒く薄暗くなる冬の日は、もう遠い彼方だ。







2026/04/01

待ち侘びていざ突入す花四月

 



 振り返れば冬の間中「春よ来い」と言っていた気がする。


 それは冬が始まった12月から、紛れもない春4月までの間、ひたすら春を待つ気持ちの

表れかもしれない。ということは、ひょっとすると我が心情的には、冬が12月から3月まで

の4か月間、ということになる。暖国に住んでも、冬が長あ~い。


 せっかく四季というものがある日本に居るのだから、それぞれの季節を等分に楽しまな

くてはソンだ! という気がする。だから冬の間も、いたずらに春を焦がれるのでなく、冬

は冬としてそれなりに楽しむテがあるはずが、寒さ、冷たさを楽しむにはどうする?。



 毎年同じことを書いているような気がするが、4月はともかく花の季節であり、その応接

にいちいち応じれば、まことにこころせわしい季節である。日本中の美しい花が、次から次

へと咲いては散り、散っては咲きして、こころ休まる暇がない。加えてネットも花の盛り。


 5月になると花の大爆発がだんだんと落ち着いてきて、若葉の季節、風薫る季節になる。

咲いたり散ったりが間遠くなり、それにつれてこころ急く気持ちも薄れてゆき、ことのほか

美しく照り映える山の緑も、なんとなく余裕をもって眺めることができる。



 ワシ等はぼんやりとこんなことを頭に浮かべながら、その日その日を送っている。そして

頭の上でミサイルや爆弾が、突然爆発する恐れもなければ、明日喰うめしの心配もひとま

ずしなくていい。なによりもまた、今日の夜は雨を遮る屋根と暖かい布団で眠れる。


 同日の同時刻、別な場所では、空から爆弾が降ってきて大勢の人が、突然に断りもなし

に殺される。俺を殺す権利は誰にもない、と大声で叫んでみても、周りでは知らん顔して

相変わらず爆弾を落とす。カミ様は、今生きている誰よりも、何よりもエライのだろうか。




訪問記録