2026/02/17

大宇宙ぎんがの如き犬ふぐり

 



 まるで春の陽気になると聞いて川っぷちを歩いてみた。


 河川敷の草野球場で少年たちが走り回っている。どの子ももう半袖で、未だダウンなど

着ているこっちがなんだか恥ずかしい。河川敷は広々と枯芝が広がって、向こうでもこっ

ちでも少年野球が真っ盛り、何れも真剣そのものの表情。ダウンを脱いで暫し見学。


 河川敷の地面の一角が、日当たりがいいのだろうか、緑が芽生えて犬ふぐりが群生して

いる。この青く輝く花を見ると、いつもながら大宇宙に広がる無数の銀河のように見えて

仕方がない。暗い虚空(地面だが)をバックにして、星々の大集団が浮かんでいる。



 川っぷちに沿って作られた遊歩道を上流に向かって歩く。川と言っても本流ではなく小

さい支流だから、向こう岸の桜の並木もよく見える。こっち側の岸辺は左手が崖になっ

て、瑞々しいアオキが生え、枝先に花芽なのか葉っぱ芽なのか、芽吹き始めている。


 崖から水が湧き出しているらしく、細い流れにってそこらの地面に、目の覚めるような鮮

やかな緑のクレソンが生えている。お婆さんが腰を屈め小さいハサミで摘み取っていた。

今晩の食卓には、ひりひりと爽やかに辛い大量のサラダが供されることだろう。



 温かい日ざしのせいなのかどうか、水鳥が川面に出ていた。マガモの雄がきらきらする

ような金属光沢の羽をさらしているし、アオサギが傲然たる態度で水に立ちこんでいる。

別のところには、カワウが二羽仲良く石の上に突っ立って羽を乾かしていた。


 もちろん子供たちもいっぱい遊びに出ていて、そこいらの川岸で目にした。男の子も女

の子も、いつでもどこでも、元気いっぱいに跳ねまわっている。きっと本格的な春になっ

たら、わらわらと家から抜け出して、そこらじゅう子供で一杯になるだろう。


 あるきはじめた みいちゃんが・・・おんもへ出たいと 待っている” 


 


2026/02/14

陽差しさす野を貫いて雪解川




 気付かないうちに陽ざしが強くなったように思う。


 雪国の野や山はまだまだ残雪がいっぱいだろうけれど、この日ざしで少し雪解けが始ま

っているのではないか。北海道の雪まつりや流氷祭りも終了したようだし、冬から春に移

行しつつあるのは間違いない。今の時期は冬と春の、ほんとの境目なんだろう。


 雪代で少し濁った、というより乳白色になった川が流れるのは、もう少し先なのかもしれ

ないが、そうなれば野山は一気に春の装い、刻々と過ぎてゆく時間を、ぼんやり眺めてい

るうちに、いつの間にかそういうことになって、また一つの季節が過ぎてゆく。



 雪国の雪解けの嬉しさは、まあなんとなく想像できる。なにしろ世界が一変してしまうの

だ。今まで毎日暗い空の下で、降る雪におののき、吹雪に籠り、ひたすら忍従を余儀なく

されていたのが、雪が消えるとまるで世界が変わったように、一変する。


 空が晴れて陽ざしは煌めき、風が温かくなり、久しぶりに野山の土が現れて、ふと気づ

いてみれば、裸木の先にほんのりと若芽が芽吹き、梅も桜も木蓮も、みんな一緒くたに咲

き誇って、もう身の周り中が明るい色彩に満ち溢れてしまうのだ。



 これにひきかえ、暖地の雪解け(雪がない? )時期はどんな感じなのか。今住んでいる

場所が暖地だとすれば、なんだかダラダラと春になる。確かに陽ざしが変わるのは実感で

きるし、気温や風が温かくなるのも実感できる。緑が萌えだすのも目に見える。


 しかし肝心の世界が一変してしまう、というようなことは起こらない。季節の区切りが劇

的に訪れるのではなく、緩やかにうねるように変わってゆく感じがする。だから春の喜びも

また、狂喜乱舞する(実際はしないけど)ようなものではなく、ま、おとなしい喜びとなる。


 温かい日と寒い日の日替わり定食。




2026/02/13

水鳥も水に入らぬ春寒し

 



 去年の気候は覚えていないが、毎年よ、立春過ぎて寒いのは、だったように思う。


 そうすると、毎年々々同じ思いに煩わされながら、その日その日を送っているらしいこと

になる。去年もこうだったし、今年もまたこうだ、ということとなり、少しも進歩というものが

ないような気がする。これをまあ、ん十年も続けてきたのかと思うとうんざりする。


 かと言って、こういう些末を離れ超然として日々を送る、ということはできそうもない。

日々の晴雨、寒暖に心を執られ、嘆いたり呻いたり、まるっきり支配されながら、どうにか

過ごしているこの身である。これからもそうするしかなさそうだから、そうする。



 それはさておき、ここのカルガモだが、確か初夏のころ街中から引っ越してきて、この水

辺に落ち着いた一族であるらしい。街中の市民会館の庭の小さな池で生まれ、母親に引

き連れられて延々2㎞あまり、安住の地を得たらしい、とテレビ報道を見た気がする。


 その時、なにも街中の喧騒で卵を産まなくとも、最初からこの近くで過ごしたらいいだろ

うに、とそう思った。まあ、カルガモにもいろいろ都合があってそうするのだろうし、そうし

た方が生きながらえるのだろうと思う。なにしろ動物の生はうまくできているはずだ。



 ともあれ、生命体が生き延び世代を繋げてゆく仕組みは、驚異であって、これほど不思

議に思われることはない。殊に細胞や遺伝子の振る舞いとその仕組みは、神というものが

存在して、そしてその神が設計したとしか思われないほど、合目的的である。


 ましてや、一個の目に見えない生命体が連綿と続いて、いま地上をにぎわしている動植

物になった、などとても信じることさえできない。それもみな今いる環境に適応した結果、

と教えられ、もしかして暑いの寒いのぐずぐず言っているというのも、これは生き物として

運命なのかもしれない、などと思ってみたりするのだ。


 しかし今日はなんだか温かい。




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