2026/03/23

うす緑萌えて煙って春の山

 



 いよいよだなあ、自然の変転が急がしくなる。


 こうなるまで冬は長かったけれど、事ここに至ればもう春は一瞬たりとも立ち止まらな

い。毎日々々ぐいぐいと花が咲き、散り、別な花が咲き、散り、して季節はいつの間にか進

む。待ってくれと言っても聞きやしない、知らん顔で自動機械のように進んでゆく。


 どだいが季節とがっぷり四つに組んで、何事かをしようか、というのは通用しないのだ

が、冬の間は遅々として目に付く変化がなかったので、ひょっとしてどうか成かと思った

が、これからは季節に引きずられて、なすがままに身を任せるしか手がないように思う。



 東京は大きな都市だから、自然なんてこれっぽっちしか残されていない、と先入観があ

たけれど住んでみれば、川っぷちの段丘だの、低い丘陵の上だの、そういうちょっと目に

付かないところに、自然らしき片割れが残されている。なんだったら、田んぼだってある。


 季節ごとにそういう場所を目指して歩くのはなんとも言えずいいものだ。掲載の写真も

川っぷちのほんの少しの段丘だけれど、ちょうど今頃から少し後の丘陵の山の風景がしっ

かり写っている。若葉が萌えだして、周り中が薄緑にけぶって、春だッ! となる。



 こんな場所を何年間も探して歩き倒していると、だんだんと遠くに行ってしまうことにな

る、が、遠くと言ってもまあ電車の日帰り圏であって、泊りがけで何日も、というのは考え

て見るだけで大変だから、そういうのは余り考えないこととしている。


 どこも似たり寄ったりで、なあ~~にがおもしろい! と言われるが、少し北の方へ行った

だけで若葉の鮮やかさが目立って違ったりする。また、農村の佇まいがやはりどこか違う

ことに気づいたりするから、どこも同じだと言って切り捨てられないのだ。


 ろくでもないことに興味を持ったものだと困っている。




2026/03/22

駘蕩と城下の寺の桜かな

 



 「江戸文化を楽しむ会」というのがあって、川越を散策することになった。


 当日は呆れるほどきれいに晴れ上がり、温かくやさしい風がそよらと頬を撫で、申し分

のないお彼岸の空である。そのうえ休日であり、観光客がわらわらと押しかけて、小さく

て狭い街のどこでも人が溢れた。蔵の通りなどは人々が詰まってしまい、動けやしない。


 川越は「小江戸」などと呼ばれ、江戸文化の俤が比較的残されていると言われる。例え

ば蔵造りの商店がずらりと並んで残っていたり、幕末に築造された川越城本丸御殿の一

部が残されているし、「時の鐘」となすけられた火の見が再建されたりしている。



 先ず喜多院へいく。家康、家光に庇護された特権的な寺、広~い境内のど真ん中に本

堂が横たわる。なにしろ横幅が広い。この本堂を中心にして、右奥に江戸城の屋敷を移築

したという建物があり、そして脇には五百羅漢が、それぞれもの思いに沈んでいる。


 春の優しい日差しを受けて、参拝者が思い々々に歩き回る。境内の染井吉野はようやく

咲き始めた名ばかりだが、エドヒガンらしい枝垂れが優雅に枝を垂れ、庭園の松の向こう

に河津桜らしい鮮やかな花が見えている。ここだけでももう春が溢れている。



 北へ歩いて市立博物館。城下のジオラマを前にして、ボランテアさんのガイダンス。江戸

時代の街の様子が一気に頭に入った。川越城を取り巻く武家屋敷地と町割りの様子、広

大な喜多院、一直線に並んで軒を接する商家の佇まい。一目瞭然、よ~く分かった。


 明治の大火で焼失した商家は再建され、有名な黒漆喰の耐火建築となった店蔵は、築

造に3年、今の貨幣価値で3億円だそうである。下地から初めて何度も々々も塗り重ね、

恐ろしいほどの手間とお金をつぎ込んである由、現在20棟が残っているという。



 ガイダンスを受けた後本丸御殿を見学、やはり事前に説明されればよく分かる。そこか

ら今度は氷川神社へ行く。境内は若いカップルで超満員、聞けば縁結びの神様なのだそ

うだ。う~む、若い人が縁結びの縁起を担ぐのかあ!  その長い列は続いている。


 川越の街の北辺をぐるっと新河岸川が流れ、氷川神社の裏側に巡っている。川筋の染

井吉野がだいぶ開いている。この花びらが散るとほ、とんど流れのない新河岸川の水面

を埋めて花筏となる。それもまた咲いている花と同様に美しい。



 陽が傾くころ、蔵造りの街並みを歩く、と言っても一向に進まない。向こうからわんさと

人が来るし、こちらからもうようよと向こうへ行く。車に押し込められ、人に突き当たり、そ

れでも蔵造りのお店で、さつま芋のなんちゃらという食べ物を手に入れる。


 あまりにもあんまりだから、「りそなコエドテラス」というちょっとした広場で休憩。なんと

まあ、人力車が4台も待機してそれぞれに若い女性が乗っていた。浴衣を着た若い女性

もいる。今の観光は単に見て回る、じゃなくその場に自ら参加することが必用らしい。


 川越は春爛漫だったように思う。




2026/03/20

人寄らず寂しきままに春炬燵


                              (AIによる)


 お世話になった炬燵だがもう人は寄り付かない。


 冬の間あれほど馴染んだが、今見るとなんだか鬱陶しく感じる。あの暑いんだかそうで

ないんだか、ぬくぬくした曖昧さが、もういいや、と感じさせる。もはや外の陽射しの方が

あったかくて気持ちがいいのだから、悪いけれど役割ご苦労さんなのだ。


 しかしながら、炬燵というのはなかなか侮れない器具ではないかと思う。暖房器具であ

ることは間違いないけれど、そこにそっと付随するものがある。団らん、というか和み、と

いうか、ミカンでも持ってくれば、自ずと人が集まってまったりする仕掛けになっている。



 炬燵は脚、腰だけを温める。風通しのいい日本家屋で、体を部分的に温めてそれでどう

する⁈ と思うのだが、どうも脚を温まれば全身があったまるらしい。外は吹雪でも、一家

中の者が炬燵に足先だけ突っ込んで、布団を引っ被って寝てしまう、それで十分なのだ。


 炬燵は室町時代から使われたと、物知りAIさんが言っている。最初は囲炉裏の余熱に

台と布団を掛けたもの、であったらしい。囲炉裏を一晩中燃やしていたら酸欠になってし

まうから、部屋そのものをあっためるという発想はなかなか出てこない。



 その囲炉裏炬燵がだんだんと発展して、江戸時代には「やぐら炬燵」「置き炬燵」となり、

囲炉裏から解放され、普通の部屋にも置けるようになった。明治の世になって「掘り炬燵」

となり(バーナード・リーチ考案だそうだ)と進化して、現在は電気炬燵一辺倒。


 とまあ、炬燵は場所も取らず、大きな装置も要らず、それでもってなかなか効率のいい

暖房器具だということだが、これは紛れない日本の発明らしい。AIさんによれば、東アジ

アの暖房は、中国:床暖&ペチカ、朝鮮:オンドル、日本:囲炉裏・火鉢・炬燵だという。


 炬燵よ、また来年会いましょう。 




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