この季節になると甜瓜が出回って、楽しみだった。今のメロンに比べればほんの霞によう
な甘さだが、そのほんのりが旨かったような気がする。今ではひたすら懐かしい。
暑からず寒からず本当にいい季節となった。
野に若草の成長を見、山に若葉の輝きを見る。とことこと野道のどこを歩いても楽しい
が、草や木の成長変化が早すぎて、多少気ぜわしいような、もっとゆっくりしたいような、
そんな気持ちもしないではない。それが春の宵の時刻に現れる。
たいがい一日中少しは風が吹いていて、枝先を揺らしたり、草をなびかせたりしている
ものだ。そんな風に何か動くものがあると、時の流れを感じ取ることができる。ところが、
春に宵のひととき、風がぴたりと止み、葉っぱ一つさえ動かずにじっとしている時がある。
こんな時はそれを眺めていて、時が止まったように感じる。カチカチとリズムを刻んでい
た時が、突然ストップし、凍り付いたように動かなくなった。草もなびかず葉も揺れず、あ
らゆるものが微動もせずにそのままの姿を保っている。まるで異世界のようである。
そして脳裏に浮かぶのは、”春宵一刻値千金”。もしかして、今目の前で時が止まってい
る状態を、”値千金”と言ったのではあるまいかと思料する。しかしながら、この感覚はきわ
めて個人的なものだろうから、他の人に説明しても分かってもらえないに違いない。
不思議なことに、この感覚を抱くのは、春の宵だけである。夏、秋、冬、同じように風のな
い宵があったとしても、宇宙の動きが止まっている、という感覚は到底持ちえない。このよ
うな極めて感覚的人間は、他の冷静なる客観的な人と比べ、なにかと面倒くさいようだ。
それでも、春の宵口、サンデッキに出てぼんやり眺めていると、この風が止み、ときが止
まる現象に包まれるときがある。そして”値千金だあ”とつくづく感じられ、なんだかとても
気分がいいのだが、そういう感覚もこき交ぜて、全体としてはどこかに流れてゆくらしい。
小さい一年坊主が入学してくる。
まるでランドセルが歩いてくるようだが、その前には胸をそらし、肩を怒らせた新入生
が、威風堂々歩いている。帽子も、制服も靴も、何もかもぶかぶかだが、これは仕方がな
い。「直ぐ大きくなって着られなくなるんだから、もう‼ 」とお母さんが嘆息する。
堂々と入学したのはいいけれど、何もかも初めてのことで、何をどうすればいいのかさ
っぱりわからない。若い、優しい、女先生の言う通り、くっ付いているしかテがないのだけ
れど、先生は慣れたもので、できる子できない子、愚図る子泣く子、み~んなひっくるめて
実にうまい具合に面倒見てくれる。今から思えば天使のような存在だったなァ。
小学校で6年間育つと、もうがらりと変わってしまう。もう一年坊主のチビの俤は微塵も
なくなってにゅろにょろと背丈が伸び、考え方も行動も半分は大人になってしまう。そうし
て、お父さん、お母さん、そこから離れてしまって、何を考えているのかわからない。
特に女の子は、卒業するころには羽化して一丁前の娘になってしまうだ。精神がしっとり
と落ち着いてきて、もう飛んだり跳ねたりをあまりしなくなる。大人を見る目もなにやら大
人びてくる。このままもう旅立ちの時かもしれない、二度と再び戻らない大人への旅。
一年坊主はちっちゃい、と言ったけれど、この頃は日本人の体格がごろりと変わったらし
く、一年坊主必ずしもちっちゃくないかもしれない。ランドセルばかりが目立った入学式は
昔年の俤ばかりかもしれない。それはもう、電車に乗れば一目瞭然、周りが壁だらけだ。
大谷翔平さんは、あのデカイ外国人の中でも一つ頭抜けている。大いに誇りに思う。今
はそこら中に180cmの男がごろごろしている印象だし、170cmの女子がわらわらしてい
る。その谷間に挟まって少々息苦しいが、もう日本人を「倭」なんぞと言わせないぞ。