2025/08/28

八月やこころせわしく過ぎてゆく。

 



もう八月も過ぎようとしている。

 

別段なにをしたということもない。鬼のような暑さに打ちのめされ、なにもできずただふ

わふわと日時が過ぎ去った。このただふわふわが、今考えてみれば曲者だったように思

う。しかしなぜか、気持ちだけは何くれとせわしく感じた日々であった。

 

確かに「朝のさんぽ」は、2,3日おきにズル休みを挟みつつ続けてみた。しかしこんな

のは、なにかしたという、確かな、手ごたえのある記憶としては残らない。日常の霧の中に

消えてしまう。そのほかと言えば、奥多摩に2回ほど出かけてみた程度である.

 

 

 よーく考えてみれば、生まれてこの方、ずう~っと、このふわふわで過ごしてきたような

気がする。浮草のように、どこへ行くのか水任せ、流れ流れて止まったところで、ただふわ

ふわしていた。そして水かさが増えればまた、どことも知れずふわふわ漂ってゆく

 

 どこかの一点でしっかりと土に根を下ろし、そこで葉を茂らせ太く成長する、など微塵も

思ったことがなかった。ただ日々の水の流れにふわふわ浮いていただけだった。どうしてこ

うなってしまうのだろう、こころを繋ぎとめる何ものかを持たないためだろうか?

  

 

神も仏も持たないし、ましてや孔子様などご縁もない。となれば、関心は、おのずと身の回り

の社会の片々に向かわざるを得ない、すなわち社会の雑多なあれこれに、こころを繋ぎとめ

ることになってしまうのではないか?

 

 これがどうもふわふわの要因なのではないのだろうか。社会の片々は、ひと時たりとも

動きを止めず、日替わりのように移り変わって止めどがない。昨日の流行、今日の廃物とな

る、これではとても安心はできない。動かざるもの、それにこころを繋がなければなぁ。

 

 神や仏はやはり必要なのだろうか?

 

 

2025/08/27

朝顔のいまだに盛ん草葎



 

 朝顔と言えば夏休み、夏休みは朝顔。

 夏休みには、朝顔の種を蒔いて、毎日水をやって観察し、それを絵日記などに残して宿題

とする、というような風潮が昔はあった。だが、朝顔を気にかけて早起きしたのは、ほんの3

日ほど、すぐさま朝寝坊はするは、朝顔なんかにかまっていられないほど、野っぱらを駆け

廻るのに忙しいは、たちまち朝顔のことなど頭から霧散してしまった。


 そして夏休みが終わるころ、ふと宿題を思い出して朝顔の場所に行ってみたら、もうみん

な種ばかりになって、あわれ葉っぱも枯れかけている。むろん絵日記など書ける筈もなく、

その他にドリルや宿題帳も真っ白けの白紙状態、泣きながら大急ぎで、何やら書いて誤魔化

して、新学期が始まれば、もう朝顔のことなどスッカラカンと忘れてしまった。



 そんなわけで、朝顔というのは夏休みの間に咲くものなのだと思っていた。ところが野っ

ぱらを歩いてみたら、夏休みが終わる今頃、生き生きと盛んに咲いている。小学生が種を蒔

いて育てた、どこかひ弱で軟弱な奴と違って、野良の朝顔は草むらの他を圧している。我が

世の天かじゃ、と言わんばかりに意気盛んで、かつまた美しくもある。


 このやけくそのような無茶苦茶な暑さの中で、ろくに雨も降らず水気のない砂漠のような

野っぱらで、衰えも見せずに咲いている。蔓性のなよっとした見かけによらず、案外に強靭

な花なのかもしれない。なんでも原産地は熱帯のアジアかアメリカらしいから、そんじょそ

こらの暑さでへこたれるようなタチではないらしい。



 かくの如く、野っぱらの貧栄養の土でも育つし、日照りの夏にもびくともしない朝顔は、

怠け者にぴったしの花だと言える。小学校時代のように、ほっぽらかして知らん顔をしてい

ても、ちゃあ~んと花をつけ、実を実らせたように、なんでもかんでも育つらしい。これは、

なんでもが面倒くさがり屋にとって、実に有難い花だと言える。


 それかあらぬか、朝顔市などが開かれ、職人が花を咲かせるまで育てたものを、ひょいっ

と脇から買ってきて、実にきれいなものだ、などと自分が咲かせたような顔ができる。そう

してまたほっぽらかして知らん顔を決め込み、次の年の夏になれば、あら不思議、目が出て

育って花だって咲かせる。なんにも手間暇かけずにしばらく楽しめるのだ。


 強い花だから、ツルベ取られて、なんて言わなくてもいい。




2025/08/26

不知火を見ぬ日ぞ多し熱の海

 

                                 (不知海ではありません)

 不知火の火はどんなものなのだろうか。


 無論のこと、肉眼でも映像でもついぞ見たことがない。どうも怪しの光りらしいから、オ

しらねい、などと言うのかもしれない。この怪しの灯が見られたのは(近年はトント現れ

ないらしいが、)八代海だという。長い日本の海岸で、ここ一か所だけというのも不思議だ。


 この火はいったいどんな風に見えるものなんだろか。蛍のようにほんわかした光なのだろ

うか、それとも光学的なちかちかしたものなのだろうか、見た人が少ないらしいが、一説で

は沖合の漁火の如し、とあるようだ。ならば蛍式のほんわかなんだろう。



 この光の謎を解くべく、地元の高校生が何年も観察したが、ついぞこの光は現れなかった

らしい。それで仕方なく、実験で再現してみたら、なんとまあ、不知火が現れたという。そ

れによれば、不知火は沖の明かりの蜃気楼現象であろうという結論になったようだ。


 八代海は列島でも例のない閉ざされた海であるらしい。深く湾入して入江はリアス式海岸

となり、後背地の山から無数の水が湧き出して海に注ぎ、温められた海水と下層の冷たい水

とが、なんでも、どうとかこうとかして、そしてこの現象が起こる、らしいのである。



 不知火海(八代海)の現象を、実験装置を工夫して再現し、遂にはその現象を突き止めた

高校生はエライ! と思う。何年も観測して、それで見られなければ、や~めた、と言って投

げ出してしまいそうだが、そこで諦めなかったのがエライ!!


 ひょっとすると、ヒトは分からないことは、なにがなんでも分かるようにする、という動

物なのかもしれない。ヒトがそういうタチだから科学が進歩し発展してきたに違いない。分

からないことがあれば、無理無体でも分かるようにする。それがヒトなのかな。


 おかげで、夢想、妄想は萎んでゆく!




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