もう八月も過ぎようとしている。
別段なにをしたということもない。鬼のような暑さに打ちのめされ、なにもできずただふ
わふわと日時が過ぎ去った。この”ただふわふわ”が、今考えてみれば曲者だったように思
う。しかしなぜか、気持ちだけは何くれとせわしく感じた日々であった。
確かに「朝のさんぽ」は、2,3日おきにズル休みを挟みつつ続けてみた。しかしこんな
のは、なにかしたという、確かな、手ごたえのある記憶としては残らない。日常の霧の中に
消えてしまう。そのほかと言えば、奥多摩に2回ほど出かけてみた程度である.
よーく考えてみれば、生まれてこの方、ずう~っと、このふわふわで過ごしてきたような
気がする。浮草のように、どこへ行くのか水任せ、流れ流れて止まったところで、ただふわ
ふわしていた。そして水かさが増えればまた、どことも知れずふわふわ漂ってゆく。
どこかの一点でしっかりと土に根を下ろし、そこで葉を茂らせ太く成長する、など微塵も
思ったことがなかった。ただ日々の水の流れにふわふわ浮いていただけだった。どうしてこ
うなってしまうのだろう、こころを繋ぎとめる何ものかを持たないためだろうか?
神も仏も持たないし、ましてや孔子様などご縁もない。となれば、関心は、おのずと身の回り
の社会の片々に向かわざるを得ない、すなわち社会の雑多なあれこれに、こころを繋ぎとめ
ることになってしまうのではないか?
これがどうも”ふわふわ”の要因なのではないのだろうか。社会の片々は、ひと時たりとも
動きを止めず、日替わりのように移り変わって止めどがない。昨日の流行、今日の廃物とな
る、これではとても安心はできない。動かざるもの、それにこころを繋がなければなぁ。
神や仏はやはり必要なのだろうか?
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