2025/09/09

山峡の野はどこまでも蕎麦の花

 



 白い蕎麦の花が目の限りどこまでも広がっている。


 こんなに蕎麦ばかり栽培してどうすんだ、と思うほどだが、蕎麦の自給率は2割ほどだと

いうから、やっぱり米に比べればほんのちょびっと、ということになる。うんと昔、縄文のこ

ろに中国から渡来して(そのころ中国と交渉があったのかなあ? )、栽培された形跡があ

るという。してみれば、まあ蕎麦は日本の由緒正しい食べ物、と言ってもいい。


 その由緒正しい古来からの日本の食べ物が、ほとんど自給されていない! ということに

驚いてしまうけれど、麺と言えば即座にラーメンの世の中なれば、これもまた仕方がない

のかもしれない。しかしまあ、ここ数年のラーメンのもてはやされ方は、いささかもの凄い

が、戦後、アメリカが「小麦を食え」と言った結果がこんな形になったのだろうか。



 蕎麦の話に戻る。ラーメンの名所が全国中にあると同じく、蕎麦も全国区である。自分

勝手に数えてみれば、山形、新潟、長野、こんなところだろうか。山形の、なんと言うことも

ない観光地の蕎麦が、案に相違して素朴で旨かった。新潟のヘギ蕎麦を始めて食ったと

きは、これはもうびっくりした。なにやら海藻を練り込んであり、つるつるのしこしこ。


 蕎麦と言えば信州、だから長野には蕎麦の名店がごっちゃりあるに違いない。ビンボー

だからそういう名店には疎いけれど、どこだったか、山すその道の駅で食った蕎麦が旨か

った。冷たくて、腰が強く、量があってその上安い、やはりビンボーの味方だって、長野に

は存在した。名店の高級ばかりでは、庶民は遠く離れてみるしかテがない。



 山梨県のはずれの方の山道を歩いていたら、しもた屋みたいなところに人がたむろして

いた。なんだろうと訝しんで見ていると、どうやら高級蕎麦屋であるらしかった。店内に入

れきれない人が表に立って待っているらしい。ひょっと見たら盛り蕎麦1500円と書いて

ある。冗談じゃねえ、散々待たされて、雀の餌ほどの蕎麦など、食ってたまるけえ。


 ともあれ蕎麦が好きなことに変わりはない。それで思うのだけれど、東京都内、名店と言

われる蕎麦屋もあるけれどが、普通の蕎麦屋も案外多いし、押し並べてどこで食っても旨

いように思う。これが蕎麦かあ⁇ という絶望に遭遇したことがまずない。大阪がうどんな

ら江戸は蕎麦、どうもこういう伝統が未だに生きているように思われる。


  蕎麦時や月の信濃の善光寺(一茶)




2025/09/08

コスモスや我が行く道は里のみち

 



 コスモスが揺れる里道を歩くのは気分がいい。


 里の中の道そのものが気分よく歩けるのに、そのうえコスモスが色とりどりに咲いて、ゆったりと風

に揺れ、空は青いし陽は穏やかだし、これ以上の気分の良さはない。たぶん里道がいいというか、

舎に惹かれるのかもしれない。田舎をひとりぽつねんと歩いていると胸が広がっていく心地がする。


 逆にたまに都内に出ると、ビルの谷間を歩いていてだんだん胸に蓋をしてしまうような気分になる。

それと自覚はしないのだけれど、どうしても気持ちが構えてしまう。だれも獲って食おうという人はい

ないのに、全身を鎧で固め、こころにしっかりと錠をかけ、ぼんやりした気分を覆い隠そうとする。



 どうしてこんな按配になってしまうのか、自分でも分からないが、都会では”田舎者丸出し”がいま

だ治らず、そのため身構えてしまうのではないか、反対に、田舎の里道では、幼少のころから身に沁

み込んだ田舎の風景に”思わず郷愁”が湧き出してしまうからなのではないかと思う。


 しかしながら、都会生まれ都会育ちの人も、なにやら田舎に憧れるようで、これがよく分からない。

都会育ちの人に田舎への郷愁はない筈だが、YouTubeを見ると、田舎暮らし、山里古民家再生、自

給自足生活、などなどわらわらと出てくる。たいがいが都会で生活していた人たちだ。


 例えば。都内生まれ都内育ちのまだ若い女性が、あるきっかけで、ふと田舎に行って病みつきとな

り、今では古民家に住み、無起耕で野菜を作り、糠味噌をこね、囲炉裏を焚いて、まるで戦前の田舎

の暮らしそのままの生活をしている。それも、嬉々としてその生活を楽しんでいるようなのだ。



 こうなると、田舎への憧れは、山育ちの単なる郷愁でもないように思えてくる。ここで思い出すの

は、養老孟司の口癖、「参勤交代論」=「都市と田舎の往復居住の勧め」。なぜそれが必用かと言え

ば、システム化、効率化され、感覚ではなく脳「意識」で考えることを優先されがちな現代において、

地方社会や自然の中に身を置くことが必用なのだ、ということらしい。


 都会育ちが、あえて田舎に住みたがるというのは、いよいよ養老孟司さんの愁いが現実になったの

だろうかとも思える。ただし、田舎に住みたがる都会人は、数とすれば少ないだろうから、あながち養

老さんの警告に従うようになった、とは言い切れまい、この風潮はいったいなんなのだろう。


 まあ、田舎歩きが楽しけりゃ、自分はそれで十分。




2025/09/06

さすがにも葛の繁茂の止まりけり

 



 葛はうんと威張っている。


 向かうところ敵なし、そこら中が我が天下、どこでも伸びてかって放題、ぐずぐず言う奴あ巻取っ

締殺してしまう。なにしろ夏中ドカドカと延び放題に延びて、人が歩く道でさえひょっとすると覆い

して知らん顔、その増殖繁茂ぶりはどこまでも止まることがない。


 このイケ図々しい繁茂は周りの植物に対する思いやりが一切なく、「ちょっと遠慮するかなア」とい

う自覚に欠けている。たまたま葛の近くに芽生えた草は大迷惑をこうむる。たちまちのうちに絡みつか

れ、押し倒され、上に大きな葉を広げられて日光さえ遮られてしまう。



 かような案配で、葛は「植物のクズ」と言われて嫌われている。植物がみんな、どうしようもない、と

諦め、出来るならそばに寄りたくないと匙を投げている。しかあ~し世の中は広いものである。この

葛の上前を平然とハネるやつが存在する。それは、だれあろう人間である。


 春先に葛が若葉を出し始めると、そそくさと行って若葉を毟り取って天ぷらにする。夏に葛の茎が

遠慮なく伸びたところで、刈り取って綱や繊維にする。花が咲けば、これも毟り取って来てお茶にす

る。そればかりか、根っこまで掘り起こして、葛粉にしたり餅にしたりする。



 人間は葛の全身を隈なく搾取してはばからない。葛の方も「いやあ、オレもいけ図々しさでは引け

をとらないと思っていたが、負けた、人間には負けたよ」と嘆いているという。それはもっともだ、人間

はこの地球上で一番傍若無人で図々しい生き物、なんの葛如きにしてやられるはずがない。


 しかしそれも今は昔、葛の若芽を天ぷらにする人も、花をお茶にする人も、ましてや根っこを掘り起

こして葛粉を取り出す、なんてべらぼうなことをする人も、もういないだろう。かくのごとくにして、葛

の天下が再び巡り来たようなわけで、いま葛は土手っぱらで好き放題のかって放題を続けている。


 葛根湯だけは年に数回お世話になってます。




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