2025/09/25

あぜ道を貫いて燃え彼岸花

 



 彼岸花はただひたすら真っ赤に咲く。


 葉っぱもなく、いきなり茎が立って天辺に真っ赤かだけの、なにやらワチャワチャした花

を咲かせるが、よくよく見れば、造花の妙、エラク複雑な形を呈している。どれが花びら

で、どれが蕊なのか、トンと見当がつかないが、でもまあ、花は花だ。


 この花は別名、曼殊沙華ともいう。なんのこっちゃ、と思ったので検索してみるとサンス

クリット語の manjusaka の音写だそうである。その大元は法華経というが、この花を地

方ではシビトバナともいうのは、その辺りからの、そんな関係なのかもしれない。



 西武池袋線がいよいよ秩父山塊に入るという裾野に、「高麗」という駅があり、近くに巾

着田がある。これは高麗川がぐるりと円を描いて蛇行している奇怪な地形だが、その円

の中が田んぼだったのであり、ここにものすごい数の彼岸花が咲いている。


 林の半日陰に、まるで真っ赤かっかの絨毯を広げたように、びっしりと隙間なく、彼岸花

が埋め尽くしていて、その季節になるとトウキョウあたりからもわらわら人が押し寄せる。

そしてその時だけ、入園料をぶったくるのである。まあ、秋の風は爽やかだし・・・



 「高麗」という名前からもひょっとして想像できるが、この辺りは昔の武蔵国高麗郡であ

った。奈良時代、半島から来た高句麗人が集められた、という歴史がある。それまでは、

高句麗の渡来人(難民)は付近に散在していたが、この地に集住させられたらしい。


 この時の渡来人代表者、高麗王若光は、高麗神社に祀られ、その墓と言われるものが、

近くの聖天院に今も残っている。なにゆえこういう措置をしたのかトンと分からないけれ

ど、日本人はこのころから、ガイジンを利用すれども胡散くさがる、だったのかナ。


 彼岸花は素知らぬ顔で風に揺れている。




2025/09/24

ふと気づき香りに寄るや葛の花

 



 嫌われモノの葛だが、花はまた別。


 大繁茂の葉裏にひっそりと隠れるように咲いている。花の色は鬼の葛に似合わしからぬ

可憐な紫色で、野の花に似つかわしく思える。試みにその花をクンカクンカ匂ってみると、

ほんのかすかだけれど、実に清々しい香りが周りに漂っている。


 その香りは秋の澄明な水のように幽かに漂っていて、沈丁花や木犀のように「どうだ、い

い香りだろう、嗅ぐべし! 」というような押しつけがない。人知れず咲いた花から、人知れ

ず香っているので、ややもすると花も香りも、気付かぬまま通り過ぎてしまう。



 香りがある花、無い花、いろいろあるけれど、あの香りは鳥や虫を引き付けるためのも

のだろうか。どうも遅くに出現したヒトのためではよもやあるはずがないと思える。なにし

ろ鳥や虫は、いや動物すべて、匂いで食えるものか食えないものか、判断している。


 とすると、動物どもは匂いに命を預けている、と、こういうことになるのだろう。だからみ

な(動物は)、匂いに極めて敏感で、猫なんぞは食えそうもないと分かれば、プイっと横

向いてしまう。あれは食わず嫌いなのではなく、食ったら死ぬ、と思ってのことだろう。



 それに比べ、われらホモサピエンスは匂いに鈍感にできている。食えるものかそうでな

いものか嗅ぎ分ける、という動物としての基本のキをすっかり無くしてしまったらしい。だ

から、なんでもかんでもひとまずは食ってみる、という作戦に出たようだ。


 かくして・・・茸を無暗に食って七転八倒し、フグをやたらに食らってあえなくなったりして

手痛い勉強を重ねてきた。その結果、ますます匂いに鈍感となり、その代わり、クサヤを発

明し、鮒ずしを作り出し、しょっつるを発見した。どっちがいいかなあ!


 セイジ家の嘘っぱちを嗅ぎ分けられたら。


 


2025/09/23

山里の空澄んできて秋彼岸



 


 季節とは正直なものである。


 暑さ寒さも彼岸まで、と言い古されてきたけれど、ほんとに涼しい爽やかな風が吹くよう

になり、朝などはちょっと寒いぐらいなので、短パン半袖を止め、早々と長袖、長ズボンで

散歩に出ることになった。さしもの酷暑もようやく諦める気になったかな?


 例年であれば、日中の気温はまだまだ残暑なのかもしれないが、今年はもう秋だなあ、

と肌が感じている。こうもぴたりと季節(感覚的気温)が変わるのであれば、いままで散々

夏の悪口を愚痴ってきたけれど、もうそれを止しにしないといけないかもしれない。



 なにはともあれ、これからは炎天に恐れをなさずに済む。今までは「年寄りは表を歩くん

じゃねえ、死ぬぞ、オラ! 」などと散々ぱら脅かされ、虐げられてきたが、これからは威風

堂々胸を張って表を歩けるのじゃないかと、大いに期待している。


 もしその気になれば、大手を振って、驚くほどデカい顔をして、野っぱらに出掛けること

ができるのだ。これはまずもって嬉しい。彼岸花で真っ赤に染まった土手の道、優しい陽

を受けて黄金色に輝き波打つ田んぼの連なりの中を、だれに遠慮もなく歩けるのだ。



 いっぽうで、少しづつ陽が短くなるのは寂しい。お昼が過ぎれば、お天道様はガックシと

首うなだれ、弱々しく西の空へ転がり落ちてゆく。それはもう、ウソのように極端であって、

午前中のあの輝き渡る溌剌さと元気とは、いったいどこへ行っちまうのだろう。


 木の葉がはらはらと舞い落ち、裸木の赤く色づいた柿の実が儚い西日を受け、山の端

が陰ってくると、そこはかとない寂しさに背中を乗っ取られて、あとどれだけ歩けるだろう

かと、たちまちチキンの心情になっちまうから情けない。陽よ短くなるな!


 巡り来て去る季節を、淡々と送れ。




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