2025/11/21

膝抱いてぽつねんと独り秋惜しむ





 タイトルのような句を思いついたが、はて・・・


 これに見合うような写真はどこにもない。あろうはずがない。写真はきれいなものを写す

のであって、薄汚いゴミみたいなものはふつう写さない。一句一ブログはいいけれど、し

ばしばこのことで悩んでしまう。つまり句に応じた適切な画像がないことだ。


 ところがぎっちょん! 近ごろ勝手にマイクロソフトに入って来て居座った、なにやらAI

が絵を作成してくれるソフトがある。長い間知らん顔をしていたが、ここでそれを使ってみ

た。そしたら最初は少女の画像ができ、これではあんまりにも看板に偽り、なので修正。



 これはAIに、絵のイメージとして、俳句そのものを書き込んだだけで出来上がった絵だ

が、「ぽつねん」とか「惜しむ」とかの言葉を理解して、絵を作成しているとは思えない。た

だ「膝を抱く」「独り」「秋」などの言葉通りの絵を描いてみた、ということだろう。


 こちらのイメージ通りにはなかなかいかないが、句に書いてある言葉がおおむね反映さ

れた絵が出来上がった。この絵はアニメっぽくしてみたが、写実的にとか、シュールレアリ

スム的にとか、ともかくいろいと変換できるボタンもあり、素人の遊びにもってこいだ。



 この短からぬ人生を、一ったれの絵も描けなくて過ごしてきた。その才能がまるっきり欠

落していて(・・・そういえば音楽だって一粒もできない、絵と同様だ)、芸術関係とは全く

無縁な寂しい来し方を歩んできて、そういうものだと諦めていたが、ひょっとするとこれで

絵のようなものが描けるかもしれない、こりゃ大ごとになった。


 絵の中の老人は憂い顔をしているが、老人は楽しくたっておおむね憂い顔をするもの

だ。だからこの老人が哀しいわけでもないかもしれない。秋から冬への季節の移り目を惜

しみつつ、なにごとかを懐かしく思い出しているのかもしれない。


 今後はときどきこの手を遣おうかと思う。




2025/11/20

山はもみじコーヒーの香りベンチから




 御岳神社の裏のあたりに小さな谷間が開いている。


 ロックガーデンなどと、こじゃれた呼び名がつけられているようだが、行ってみたら岩や

石ころがごろごろしていて、緩やかなU字の渓が展開していた。ちょうど秋が深まる時期だ

ったので、周りの雑木がモミジの赤はないけれど、黄や茶に色づいて明るい。


 素朴なベンチとテーブルが設えてあり、若者たちがコーヒーのいい香りを振りまいてい

る。森の中のカフェがそこここに開店営業中である。爺さんの年代はキャンプや登山は日

常から離れることだと思い込んでいるが、今の若者は日常を無理やりでも持ち込んでくる

らしい。



 夏に茂り放題だった雑木の葉の半分ほどがすでに散って、隙間があいて日が差し込み、

葉っぱの緑が黄や茶に変わって、樹幹は大変明るい。明るい谷間に明るい人たちが集ま

って来て、笑いさざめき、まるでビルの中の明るいカフェの如くである。


 谷間の場所によっては、わずかなモミジを加えて、赤、黄色、茶色、そして緑、それぞれ

の枝が横ざまに広がって、この4色の霞が棚引いているように見える。別段モミジの名所

でなくても、その時期にジャストであれば、どこでもそれなりにモミジは美しいと知った。




 この辺りがこんな按配になってくると、もう冬は近い。あとは雑木の葉は散る一方であり

たちまち裸の枝が空に突き刺さり、山肌はくすんだ灰色に塗り込められる。そうして1か

月、2か月、忍の一字で待っていると、空が明るくなって裸の木の枝に霞のようなものが

纏いつく。


 こうしてまた、季節の繰り返しが始まるのだが、この繰り返しは何べん経験しても、もう

飽きたから要らない! という事がない。何回だろうと何べんだろうとOKである。何べん

繰り返そうと、その度に新鮮であり、その度に愛おしい。だから飽きるというこはない。


 神の定めに反してそう思う。




2025/11/19

柿落葉現代アートの一、二枚





 柿の葉は散ってなお華麗である。

 目の覚めるような色合いを保ち、様々な不思議な形を織りなし、現代アートさながらに

見えてくる。この画像はたまたま濃い青地の中に赤い点々が、窯変天目のような模様を描

き出していて、ついつい立ち止まってじっくりと眺めることとなってしまう。


 柿の葉っぱは、萌えだした新緑のころは、表面が油を塗ったようにつやつやと陽を反射

してとても美しいし、秋ともなればこのように変身して、絵画のような趣を呈している。ひょ

っとすると柿の葉は、落葉樹の中でもモノすんごい実力者なのではあるまいか。



 秋に柿木を見れば、どうしても実の方に視線が奪われる。あの実は甘いのか渋いのか、

旨いのかまずいのか、そっちの方が大事であって、柿の葉っぱをしげしげと眺める人はそ

う多くない。しかし実力はある、だから柿の葉っぱは落葉紅葉樹の影なる実力者なのだ。


 意外なことに、すし飯を包んでその実力をいかんなく発揮するものもいる。柿の葉寿司

というのは、小さく包んだ見た目も旨そうだし、なんと言っても可愛らしい。これぞ実力で

あって、悔しかったら楓やモミジ派の葉っぱで、すし飯を包んでみたらどうか。



 葉っぱが全部散ってしまって、棒切れのような枝に柿の赤い実だけが残っている、とい

う眺めは、のどか、牧歌的、閑寂を全部ひっくるめて一語にしたようなもので、人の郷愁を

イタク惹きつけて止まない。ここに夕焼けとカラスを配置すれば一層懐かしい。


 この点でも並々ならぬ実力者であるのだが、惜しむらくは人がその実力を正当に評価し

ない傾向がある。「なぁんだ、柿かあ! 」で澄ましてしまっている。これでは柿がかわいそ

うである。その実も花も木も地味々々ではあるが、実力はやはり正当に評価したい。

 やたら柿の依怙贔屓だが、好きなんだこの実が・・・




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