2025/12/06

すでにして緑が芽吹く冬田かな

 



 目の限りの田んぼが枯れはてた。


 しかし畦道はなにやら緑で、どっかと腰を下ろして休憩し、周りをよく見てみると、冬枯

れの今、若草が萌えだしているらしい。自然界はもうすでに春の準備をして、虎視眈々い

つ春になってもいいように身構えているのかと思う。エライもんだ!


 考えてみれば、自然の草花はなにも、人間の作った四季にきちんと合わせて、芽生えた

り枯れたりしなくてもいい筈だ。それぞれの草や花の都合というものもあるだろうし、それ

ぞれに任せておけばいい。冬のうちに芽を出すとはケシカラン、など言ってはいけない。



 と言うことなんだろうけれど、こっちは知らないもんだから、なんで春でもないのに草の

芽が出るんだァ、とビックラこく。これから季節は一途に、頑固に冬になって、日が短くな

り、寒さがいやらしくなり、この世のすべては仮死状態、休憩に入る、と思っている。


 そういうこっち側の思い込み、固定観念をぶっ壊すのは容易ではない。なにしろン十年

もの長い間、そういう固定観念まみれになってきた。そうそう簡単には壊れそうもないが、

現物、つまり冬の若草をこの目で確認すれば、これはもう手を挙げるしかない。



 そういうふうに、自然界を細かく見ていけば、不思議や驚きがいっぱいあるに違いな

い。ただこっちにその「目」がないものだから、大雑把に乱暴に見ただけで澄ましているの

だろう。もっとも視線の先の、ナニに驚き、ナニを不思議とするか、それぞれだけど…


 この世界に存在する「モノ」を見る、という事は、これで案外難しいことなのんだなと思

う。日ごろただ何となく見過ごしているけれど、よくよく、穴が開くほど見つめてみれば、ま

ったく違った何かが見えてくるかもしれない。ただ、それを見るのがいいことかどうか?







2025/12/05

雪国や宿の朝餉に納豆汁

                             (AIさん作成)

 

 納豆汁はあまり一般的でないように思う。


 などと言えば、秋田山形方面から叱られるかもしれないが、身の回りではあまり見かけ

ないようだ。納豆、それだけなら毎日食してン十年、もはや欠かせない食材になっている

が、納豆汁となると、ひょいっとパックから出して即食う、というわけにはまいらない。


 AIさんが教えるところによれば、江戸時代には全国的に食べられていたようだが、今で

は秋田山形方面の郷土料理になっているようだ。作り方は単にみそ汁に納豆をぶち込ん

で、ハイ、おわり! ではなく、納豆はすりつぶし、ほかの具も入れるのだという。


 具材としては、里芋、豆腐、油揚げ、きのこ、山菜などたくさん入れ、納豆はすり鉢で丁

寧にすり潰すという。いやいやこうなっては、単に豆腐をぶち込んだみそ汁とはまるで別

物、そう易々とは作れるもんじゃないない、だから今の時代には向かないのだろう。



 しかし、粒が見えないほどよくすり潰した納豆のとろみは、ほかの具材とよく馴染み冷め

にくく、体を芯から温めてくれるようで、雪国の食物としてピタンコだと思う。納豆を煮る、

と思えばその臭気や大変なものだと想像するが、かえって臭みもなくなるのだそうだ。


 寒い冬の朝、食卓にほかほかと湯気が立つ納豆汁がある。半信半疑で口にすると、温

かい汁がなめらかに喉を滑って、胃袋まで温めてくれるような気がする。ふう~~っと体

のこわばりが溶けて、なんだか幸せとはこういうものかと思わされる。



 そんなに食いたければ、自分で作りゃいいじゃないか、と当然考える。が、なにごとも面

倒くさいことはイヤだ。納豆をすり鉢で粒がなくなるまで丁寧に潰す、というのが、トテモ

面倒くさそうだ。それを考えると、即諦め、「いいや、また今度」、となってしまう。


 こんなこっちゃあ、到底グルメになれない。テレビは「絶品グルメ! 」と叫ばない日はな

いが、現実にはどこを探しても、「グルメ」など見当たらないような気がする。まあ、グルメ

でなくていいから、せいぜい旨そうなものを妄想して、ニヤリとするのがいいや。


 ところで「郷土料理」なるもの、今だ健在なりや?




2025/12/04

けなげにもまだ花求め冬の蝶

 



 今ごろ蝶がヒラヒラしていていいのかと思う。


 ところが居る、ヒラヒラしている、花なんかろくなものがないのに、ちゃあ~んと停まって

食事に余念がない。蝶と言えば春、だとばかり思っていた。ところが野っぱらを歩いてみる

と、ガンガン照りの真夏だろうが、涼風の秋だろうがお構いなくいるのだ。


 さすが冬の蝶は尾羽打ち枯れ、満身創痍みたいになっているけれど、蜜を求めて花から

花へ飛び交っている。その姿は真摯で必死のように見え、思わず立ち止まってその姿を

追ってしまう。生きようとする懸命さみたいなものがひしひし迫ってくるようだ。



 その季節ごとに活躍する、要するに目立つ、蝶の種類があるのだと思う。だからその季

節ごとに、生まれ育ち、あるいは動物としての義務を果たして死んでゆくのだろう。と、そ

う思うが、その辺りのことはチンプンのカンプンで全く知らない。困ったもんだ!


 今からでも少し、昆虫や小鳥やその他生き物の名前を覚えたい気がするが、おそらく覚

えられないだろうナア、という気満々である。なにしろ今まで覚えていた、何がし、かにが

し、瞬く間に脳ミソから消えていく日常なのだ。とても新しいものなど一滴も入るまい。



 野っぱら歩きが趣味だから、ほんとはそういうことを死ぬほど知っていていい筈だが、ま

るで知らない。思い出してみると、野っぱら歩きが好きになったのは中年になってからで、

それまでは恐ろしくなんにもしないグダグダ人間だった。


 そうして野っぱら歩きを趣味と感じるようになってからも、とにかく遠くまで歩くことが第

一であって、途中の花や蝶や虫などに、1mmも関心を寄せなかった。おそらくそんなこん

なが重なって、かくの如きダメ男が出来上がったのだろう。今となっては遅いよナァ。




訪問記録