2025/12/13

霜枯れに耐えに堪えたる菊の花

 




 なんだか「おしん」みたいなタイトルだなあ。


 散歩道で菊の花をよく見かけるが、もはや枯れ始めているのがある。あでやかな赤や黄

色の花びらが、縮こまって茶色に変色し、それでもなお散らずに茎に着いている。桜のよ

うに散ってしまえば、この老いさらばえた花をみなくても済むのになあ、と思う。


 そう思うけれど、老いさらばえた花を見ると、自分の姿をうんと上空の棚に上げてしまっ

て、なにやら哀れを感じる。おそらくその姿を無意識のうちに自分と重ねてしまって、どこ

かで仲間のような、親しげであるような、そんな哀れさが沸き上がってくるのだろうか。



 菊はその姿かたちも、あんまりでしゃばないから好ましいけれど、その香りも何とも言え

ない。ほのかながらツンと鼻孔を刺激し、ふんわりと鼻に抜けていく。菊の咲いているのを

見ると、たいがいはクンかクンかと香りをかいでみる。そうして満足して歩き出す。


 いっそのこと、この花を食っちゃえ、と言うのが黄菊の甘酢漬け。丼を近づけると、鼻か

ら口から目のあたりまで、かぐわしい香りに満たされ、しんなりした花びらを口に入れれ

ば、しゃきしゃきの歯触りが実にこころよい。しかしまあ、最近はあまり見かけなくなった。



 平安貴族という人たちにはちょっと変わった趣味があったらしく、この枯れそぼった菊

の花もまた床しいものとして珍重したらしい。ンなもん、なんの役にも立たないのになあ、

と言うような合理性がなかったのかどうか、「移ろう菊」として大事にされたそうだ。


 これは、だんだん枯れてゆく過程で、花の色が微妙に変化する(例えば、白菊が紫色に)

過程を慈しんだようで、今から思えば、ヱー~、なんで”⁉ なのだが、ともかくそういう風

習があったと、これは「tenki.jp」の解説で縷々説明している。


 なんとまあ、そういうご先祖様がいたんだねえ!




2025/12/11

温かく陽ざしは漏れて冬木立

 



 冬の林の中はあんがいに明るい。


 葉っぱが落ちた枝の間から木洩れ日がしっかりと漏れ込んで、枝が揺れるとあたかも踊

るが如く飛び跳ねるが如く乱舞する。冬の木立だというのに、なにやらあったかさまで感

じられそうである。冬とは言えど、こころまで、こごえ、しばれているわけではない。


 葉っぱが茂り放題で、じっとり湿ったな夏よりも、むしろ冬の葉っぱのない、明るく乾い

た林を歩く方が、どっちかと言えば心地がよい。それが雑木林の道ならば、散り敷いた枯

葉が積もって、歩く度にカサコソカサコソ、軽快な音を奏でて楽しい。



 そんな風に思えば、冬の野っぱら道を敬遠するには当たらないかもしれない。寒ッ、と

思うから、出かける前から億劫になるけれど、出てしまえば案外ドってことなかったりする

し、歩き出せば体はあったかくなるし、目玉はいろいろ珍しい景色を見て安堵する。


 ただ問題は、その出かける前の、イヤだな、と言う億劫な気持ちを、どう押さえつけるか

だ。これがなかなかどうして、難問なのだと思う。人間(と、一般化していいのか? )、どう

しても目の前の、今現在の感情に流されてしまい、すぐに立ち上がって行動に移せない。



 今年の冬はこのことを念頭に置いて、宿題にしようかと思う。なにしろ、怠け、ずぼら、軟

弱、どんくさ・・・これらを絵に描いたような性格だから、われながら自分ながら、とても思

うようにいかないだろう、と今からつくづく思うけれど、いちおう努力目標である。


 もしも万が一、この努力目標が危うくも達成されたなら、冬の野っぱら道を存分に楽し

むことができるであろう。木漏れ日の林も、風になびく枯れすすきも、若草の枯れ葉を押

しのけるさまも、日一日と遅くなる夕暮も、みん~~な目にすることができるであろう。





2025/12/09

やすやすと北風いなし枯尾花

 


 

 ススキの白い穂が無暗に風になぶられている。


 しかしよく見ると、人の美しい銀髪が陽ざしにきらきら光っているようでもあり、大変き

れいだ。こうなる一段階前は、穂の一本一本が目立って、その色は茶色のようでもあり、

また紫っぽい色でもあるようだ。それが時期が進むと銀髪になってしまうらしい。


 ススキは広大な原っぱを作る。だから、これがまだ緑の時も見ごたえ十分、ざわざわと

波がしらのように風になびき、原っぱのこっちから向こうへと、その波が伝わっていく様を

見るのも、気宇壮大、ダイナミックな気分になる。なにしろ景観がデカいからいい。



 しかし秋になって一面が枯れ茶色に代わってくると、なぜか寂しい気分を醸し出す。今

度はその景観のデカさが、逆に渺茫と果てしなく、どこまでも寂しさが続いて行くような気

になる。ススキを唄った数々の歌もみな、寂しさばかりを強調する。


 しかしそのような、ススキによってもたらされるさまざまな感情の起伏は、それはそれと

して、モノとしてのススキに着目すると、また全く別な面が見えてきそうである。世界を、と

言うか目に見えるものを、モノに則してみるかどうかは大変重要だと言われている。

 


 第一に、ススキはわれらの暮らしにとってものすごく有用なモノである。ススキが無けれ

ば屋根が葺けない。白川郷のあの景観はあり得ない。瓦と言う焼物が庶民に普及するま

で、ススキが無ければ、みんな雨がザンザン降り注ぐ中で生活しなくてはならない筈だ。


 他には、え~と、え~と、ネットに聞いてみたら、箒、お茶、堆肥、飾り物、クラフト・・・など

などに利用されている、と教えてくれた。え~と、あんまり大したものはないなあ。けれど、

ススキは地味のやせたほとんど荒地のような場所でも、お構いなくぐんぐん育つ。


 きわめて優秀な草なのだ。





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