2026/02/04

燦々と日本の空に春立つ日

 



 日本列島は立春となったけれど、さりながら。


 雪国の雪の被害は想像以上であった。なにしろ雪の重みで家がつぶれた、などというこ

とは、おいそれと聞いた話ではない。潰れるまで、雪下ろしも除雪も何もできなかった、と

いうほど一気呵成に降って、そして降り続いて、対策が間に合わなかったらしい。


 ことにテレビニュースで見る青森は、とんでもないことになっているらしい。県庁所在地

の市であっても、除雪の手が入らない横丁の路地などは、何もかもが雪にうずもれ、人ひ

とり歩くだけのの隙間が辛うじて確保されているだけ、手の施しようもない状況だろう。



 というような事態もあり、手放しで「立春だァ」と喜んではいられないが、まあ、ひとまず

の区切りではある。しかし大いなる疑問もある。太陽の動きから冬至と春分の真ん中の点

を「立春」としたらしいが、よく考えてみれば、太陽の動きソク季節連動ではない筈だ。


 例えば、立春、春分、立夏、夏至、立秋、秋分、立冬、冬至、これは太陽の動きに従った

命名であるようだが、季節は地域によって異なる筈である。今まであまり疑問も抱かず、

これが季節を表すものだとばかり思っていたが、その地の季節と太陽の動きは一致する

ものではない、ということを、ここに至って、ようやく認識するにことができた。



 まあ、「今更なにを言うとんのか、このバッカもん! 」と言われても仕方がないが、長いあ

いだ中国発祥の「二十四節季」という、便利で簡単な早見表があったので、これを使い慣

れてきて、どうも季節がずれてるなあ、と思いながらも、まあ済ませてきた。


 日本も自前の「二十四節季」なるものを、どこかの誰かに作ってもらいたいが、今はどこ

にでもエアコンはあるし、暑さ寒さが都市空間では程よく管理されているのだから、季節

なんて概念は、お呼びでない、使わない、必要ない、ということかも知れない。


 そういえば「季節のない街」というのがあったなあ。




2026/02/03

豆まきや隣の子の声大人びて

 



 隣の男の子もまたたく間に成長し、豆撒く声が漏れてくる。


 昔はそれぞれの家々で「フクワウチー、オニワソトー」と大声で叫んで、家のうち、そとナ

ニ構わずに豆をまき散らした。たいがいの家庭では主に男の子が豆まきをさせられたよう

である。これが嫌だった。虚空に向かって大声を出すのがナゼカ恥ずかしかったのだ。


 今はもう豆まきなど家庭ではしなくなったらしい。大豆などまき散らして、あとの掃除が

大変だし、あんなもの食ってみたってうまくもなんともない。それに代わるものかどうか知

らないけれど、ぶっとい海苔巻きをあぐあぐ喰うという風習が盛んなようである。



 どっちにしろ昔からの風習が残って、年中行事として行われてきたものらしい。豆まきな

どに至っては、平安時代の宮中行事が漏れ出して、延々庶民のあいだに受け継がれて来

たものだという。年中行事や風俗習慣というものは、恐ろしく長く続くものだなあ。


 何事も浮き沈みの多い今の世でも、有名どころの神社仏閣では、今でも盛大にタレント

など集めて豆をまくし、恵方巻を食わなければ節分じゃない、みたいにテレビが言うし、そ

うそう簡単には、こういう習俗は消えてしまわないらしい。凄いことだナア!



 それはそれとして、我が家ではもう年中行事を何もしなくなった。どうも齢をとるとなに

もかも面倒くせえ! となるようで、年々歳々行事が減ってしまい、今ではもう正月に飲

んだくれるぐらいが精一杯になってしまった。やんぬることかな、である。


 子供が小さい時分は、我が親にしてもらった懐かしの年中行事は、なるべくしてやろう、

などと思っていた。五月飾りを出したり、菖蒲湯を沸かしたり、月見団子は作らなかったけ

れど、柚子の湯をたてたり、小豆粥を食ったりした。それもあんがい真剣に。


 でもこうやって並べてみたら、ほぼ我らの爺さん婆さんからの引継ぎであった。




2026/02/02

沢水の流れて澄んで猫柳

 

                                 (AIによる)


 まだ雪が残る冷たい沢の岸辺に猫柳は咲く。


 咲くのかそれとも蕾が膨らむのか、指のような塊にふわふわした毛のようなものがつい

ている。これを見かけると春の先駆けだと自覚するが、なんと言ってもまだ冬の最中、うろ

うろと川岸など歩いていられるものじゃない。そそくさとどこか家の中に逃げ込む。


 種類が違うのか、それとも季節が移ってそうなるのか、この白い毛のような間からひゅっ

ひゅっと細い軸が伸びて、そして赤い芥子粒のようなものが先端に着く。この赤い芥子粒

がもしかして花なんだろうか? どうも一般的な花とはまるで違うようだ。



 このような猫柳の姿はガキの時分からよく目にしたが、この後この指のような物体がど

のようになるのか知らない。子供時分は他にも草や木がいっぱいで、猫柳だけにかかず

らわっている余裕などなく、この猫の尻尾状態のまま、すっかり忘れてしまっている。


 この点を深く追求する子供だったら、ひょっとして植物学者などになっていたかもしれな

いが、飽きっぽくて忘れっぽい性格は、単なる凡人をひとり生み出しただけに終わってし

まった。なんとも残念という気がするが、そうそう学者ばかりになっても困るだろう。



 草や木や虫の、名前も性質もなあ~~んにも知らないまま、ただ体だけ大きくなってし

まったが、しかし草深い田舎でいろんな自然に、皮膚感覚で接することができたのはよか

ったような気がする。今になってみるとそんな思い出ばかりが、ふわふわと浮かんでくる。


 その思い出には、なんだか知らんがほんわかした優しい感情が着いている。だから想い

出すと、とても気分がいい。青年期や成人期のように、面白くもなく、面白くもなくもない

七面倒くさいお思い出には、そんな感情は微塵もないからガキの頃の思い出がいい。




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