2026/02/14

陽差しさす野を貫いて雪解川




 気付かないうちに陽ざしが強くなったように思う。


 雪国の野や山はまだまだ残雪がいっぱいだろうけれど、この日ざしで少し雪解けが始ま

っているのではないか。北海道の雪まつりや流氷祭りも終了したようだし、冬から春に移

行しつつあるのは間違いない。今の時期は冬と春の、ほんとの境目なんだろう。


 雪代で少し濁った、というより乳白色になった川が流れるのは、もう少し先なのかもしれ

ないが、そうなれば野山は一気に春の装い、刻々と過ぎてゆく時間を、ぼんやり眺めてい

るうちに、いつの間にかそういうことになって、また一つの季節が過ぎてゆく。



 雪国の雪解けの嬉しさは、まあなんとなく想像できる。なにしろ世界が一変してしまうの

だ。今まで毎日暗い空の下で、降る雪におののき、吹雪に籠り、ひたすら忍従を余儀なく

されていたのが、雪が消えるとまるで世界が変わったように、一変する。


 空が晴れて陽ざしは煌めき、風が温かくなり、久しぶりに野山の土が現れて、ふと気づ

いてみれば、裸木の先にほんのりと若芽が芽吹き、梅も桜も木蓮も、みんな一緒くたに咲

き誇って、もう身の周り中が明るい色彩に満ち溢れてしまうのだ。



 これにひきかえ、暖地の雪解け(雪がない? )時期はどんな感じなのか。今住んでいる

場所が暖地だとすれば、なんだかダラダラと春になる。確かに陽ざしが変わるのは実感で

きるし、気温や風が温かくなるのも実感できる。緑が萌えだすのも目に見える。


 しかし肝心の世界が一変してしまう、というようなことは起こらない。季節の区切りが劇

的に訪れるのではなく、緩やかにうねるように変わってゆく感じがする。だから春の喜びも

また、狂喜乱舞する(実際はしないけど)ようなものではなく、ま、おとなしい喜びとなる。


 温かい日と寒い日の日替わり定食。




2026/02/13

水鳥も水に入らぬ春寒し

 



 去年の気候は覚えていないが、毎年よ、立春過ぎて寒いのは、だったように思う。


 そうすると、毎年々々同じ思いに煩わされながら、その日その日を送っているらしいこと

になる。去年もこうだったし、今年もまたこうだ、ということとなり、少しも進歩というものが

ないような気がする。これをまあ、ん十年も続けてきたのかと思うとうんざりする。


 かと言って、こういう些末を離れ超然として日々を送る、ということはできそうもない。

日々の晴雨、寒暖に心を執られ、嘆いたり呻いたり、まるっきり支配されながら、どうにか

過ごしているこの身である。これからもそうするしかなさそうだから、そうする。



 それはさておき、ここのカルガモだが、確か初夏のころ街中から引っ越してきて、この水

辺に落ち着いた一族であるらしい。街中の市民会館の庭の小さな池で生まれ、母親に引

き連れられて延々2㎞あまり、安住の地を得たらしい、とテレビ報道を見た気がする。


 その時、なにも街中の喧騒で卵を産まなくとも、最初からこの近くで過ごしたらいいだろ

うに、とそう思った。まあ、カルガモにもいろいろ都合があってそうするのだろうし、そうし

た方が生きながらえるのだろうと思う。なにしろ動物の生はうまくできているはずだ。



 ともあれ、生命体が生き延び世代を繋げてゆく仕組みは、驚異であって、これほど不思

議に思われることはない。殊に細胞や遺伝子の振る舞いとその仕組みは、神というものが

存在して、そしてその神が設計したとしか思われないほど、合目的的である。


 ましてや、一個の目に見えない生命体が連綿と続いて、いま地上をにぎわしている動植

物になった、などとても信じることさえできない。それもみな今いる環境に適応した結果、

と教えられ、もしかして暑いの寒いのぐずぐず言っているというのも、これは生き物として

運命なのかもしれない、などと思ってみたりするのだ。


 しかし今日はなんだか温かい。




2026/02/11

あえかにも暫らく咲けよクロッカス

 



 早春の花はどれも儚げだ。


 まだ寒い中を大変なエネルギーを使って咲くからだろうか、その花はいつの間にかすっ

と消えて、あとに何も残っていないように思われる。例えば、セツブンソウ、カタクリ、フクジ

ュソウ・・・「や、咲いたな」、と思ううちにもう姿が見えない。あとに葉っぱも残らない。


 この手の早春の花を、スプリング・エフェメラル(Spring ephemeral)と言うそうだ。

やや! またしても英語らしき言葉、分からないから、いちいちネットさんに聞くしかない。

(ここは日本だぞう! いい加減にしてくれ! )、なんて言うのは外に誰もいないが・・・



 これを日本語に訳すと「春の儚い命」となるだそうだが、日本語にすれば「春の無常」でい

いような気もする。なにしろ日本では「儚い」とか「無常」とかは得意だ。春の命が儚いかど

うか、春だろうが秋だろうが、命は昔から儚いものであって、春に限ったことではない。


 Spring ephemeral は英語らしいから、イギリスではことのほか「春の儚い命」なる

現象が印象深いのだろうか。日本人が秋の枯葉が散るのを見て、深々と世の無常を思

ように、イギリス人はクロッカスなどを見て、世の無常を思い知るのだろうか。



 それはさておき、早春のこういう花はすぐ消えてしまうから、それを見るこっちは春にな

ると、なんとなく気ぜわしいような、忙しいような、そういう気持ちがするのだろうか。今年

は一つ、こういう気ぜわしい気持ちを抑えて、泰然自若、何ごともゆったりと構えたい。 


 暑かろうが寒かろうが、花が咲こうが散ろうが、雨が降ろうが晴れようが、目の端っこで

ちらりとそれを見るだけにして、嬉しくもなく、寂しくもなく、楽しいような、そうでもないよ

うな、そういう顔をして時間を流したいと思う。ひょっとしてこれができれば、悟りだナ。




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