2026/02/24

上水の流れ煌めき春陽ざし

 



 本物の春のように温かったので、羽村の堰から玉川上水を下る。


 水ぬるむ春、とはいかないまでも、上水の流れが陽ざしを照り返してきらきらとはしゃい

でいるように見えた。ただ岸辺はまだ冬枯れに染まっていて、緑なすハコベも下草も何も

なかったが、頬を過ぎる風はそよらと吹いて、とても気分がよい。


 玉川上水は江戸時代に開削されたことは誰でも知っている。そして羽村の堰から四谷

大木戸までその距離43㎞だが、高低差がなんと93mしかない、ということに誰もが驚く。

平均勾配が100mにつき、たった21cmしかない、測量器具などない時代、驚きべきだ。



 上水が滔々と流れる脇に砂利の遊歩道が付いている。桜の並木があり、その時期には

墨堤も顔負け、というような花の堤になるらしい。そんな道を500mほど下ると、又も堰で

流れが止められ、流れてきたほとんどの水がゲートを通って地下に吸い込まれてい行く。


 ここから約8㎞離れた村山貯水池へ、地下水路で送られている。そのゲートのあたりを

凝視するとなにやらゴーゴーとした水音が聞こえるようだ。この堰を過ぎると上水は浅く

小さな流れに変わって、川幅も狭くなり、まるで別人のようにおとなしくなっている。



 川岸に大きなお寺があって、本堂も庫裏もどっしりと静まり、睥睨するように聳えてい

る。境内の端っこに梅が満開になっていたので、梅見を兼ねて休憩する。なにか巨大なも

のに抱かれているような思いがした。背中から梅の香りが微かに漂ってくる。


 隣が造り酒屋になっているので覗いてみた。白壁の蔵が並び庇に大きな杉玉が揺れて

いた。土の上はどこもきれいに掃き清められ、清々しい。裏門に廻ってみたら、梅林があっ

てこれもまた満開、白梅、紅梅、薄紅、様々に咲き競い、むせ返るような感じがする。



 上水の脇の遊歩道はここで途切れ、代わりに奥多摩街道が寄り添ってきた。それも終わ

ると、流れは住宅の裏に入って見えなくなった。そして青梅線拝島駅のあたりで再び現

れ、その先はもう、上水の両側に遊歩道が付けられていて、づっと続いている。


 続いているけれど、いささか草臥れたらしい。少し歩いて、梅の花が満開の小さな公

園に休憩して、今日はここまでにしようと思った。まだ日も高いし、そよ風も吹いているの

だけれど、これからまだまだ歩く春の日もあるから、ここから電車で帰ることにした。


 いい一日だったように思う。




2026/02/23

人の見ぬ軒にひっそり黄梅花

 

                                (AIによる)

 鮮やかな黄色のこの花はよく見かける。


 のだけれど、ちっとも注意をひかない。思うに花の形が極めて非凡、6枚の花弁がただ

突き出しているだけで、変わったところはどこにもない。ところがこの花は、漢名を「迎春

花」ともいい、なにやら春の花の代表みたいな、エラク高雅な名前になっている。


 と、いうことも全く知らずに、公園などでこの花を眺めてきた。同じころ咲く連翹よりも少

し地味な感じがするので、目の方は連翹に吸い寄せられ、この花をじっくり見たことがな

い。土台が花など優雅に眺めるような人間ではないのだから、まあそんなもんだ。



 この世界には、死ぬほどたくさんの花がある。そうしてその一つ一つに名前がついてい

て、ただ単に”はな”といわれるものは一つもない。どうもヒトというのはなににでも名前を

付けたがる動物のようである。こっちのぶっくれ頭ではとても覚えきれないけれど。


 日本人はしかし、とんでもない名前を花に付けているのがおかしい。例えば、オオイヌノ

フグリ、ヘクソカズラ、ママコノシリヌグイ・・・どうしてこんな、大声では言いえないような名

前にしたのか、そしてまた、その名が延々と引き継がれてきたのか、よく分からない。



 ともあれ、この黄梅は「迎春花」でもある。今度公園などで見かけたときは黄梅ではなく

迎春花であるような顔で見るつもりだ。そうすれば、もしかしてひょっとすると、エラク典雅

で、いかにも春が来たような、そんな風に見えるかもしれない。


 さて、「迎春花」があれば「惜春鳥」というのも聞いたことがある。こういう名の鳥が実際

にいるのかどうか知らないが、どもいそうな気がする。しかしネットには大昔の映画のこと

ばかり出てきて、動物の鳥は出てこないようだ。要は、春は惜しむべし、ということか。


 今日は春をすっ飛ばして初夏のようだ。




2026/02/21

阿蘇全山空を焦がして野焼きかな

 



 表題の句を入力してAIさんにお願いしたら、こんな絵が出てきた。


 なんとも物凄いような絵であって、阿蘇がこんなことになったら大ごとだが、まあせっか

くAIさんが知恵を絞ってくれたのだろうから、誇張はあるだろうけれどこのままにしておこ

うと思う。悪いのはこちら側の句の方であって、決してAIさんが悪いわけではない。


 ネットなどで見ると、ほんとの山焼きはもっともっと抑制され、しっかり管理されて実施さ

れ続けられているらしい。しかしこれも、全国おなじみ老齢化とかで、素人のボランテアさ

んがどうにか実施しているというから、どこでも伝統を守るのは大変だ。



 野焼きや山焼きをするのは、もっぱら草原の生態系を維持するためであって、何も伝統

だからとか、面白いからとかで行われているのではないのは言うまでもない。草原は放っ

て置くと森林になってしまい、阿蘇の草原は明治時の半分になってしまったそうだ。


 草原の生態系は貴重なもので、保水力も森林より優れ、生物の多様性が維持され、炭

素を多く地中に取り入れて温暖化に貢献する、と言われている。このことに共鳴して、110

0名のボランテアさんが、講習を受けて野焼きに参加しているそうだ。エライなあ!



 しかし一方ではまた、怒涛のような時代の流れみたいなものがあって、何もかもを巻き

込んで止めようもない気もする。過疎の地は山谷に戻り、草原は森林となってものみな自

然に帰ってゆく。人影ない自然はひたすら不気味だが、仕方ないことかも知れない。


 しかし遠い将来にそうなったとしても、それでもヒトは生き続け文化を残してゆくのだろ

うと思う。ヒトという生き物が絶滅しない限り、この地球上には希望があるような気がする

けれど、もし絶滅するとすれば、ヒトがヒトを絶滅させるのだろうか⁉




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