2026/03/20

人寄らず寂しきままに春炬燵


                              (AIによる)


 お世話になった炬燵だがもう人は寄り付かない。


 冬の間あれほど馴染んだが、今見るとなんだか鬱陶しく感じる。あの暑いんだかそうで

ないんだか、ぬくぬくした曖昧さが、もういいや、と感じさせる。もはや外の陽射しの方が

あったかくて気持ちがいいのだから、悪いけれど役割ご苦労さんなのだ。


 しかしながら、炬燵というのはなかなか侮れない器具ではないかと思う。暖房器具であ

ることは間違いないけれど、そこにそっと付随するものがある。団らん、というか和み、と

いうか、ミカンでも持ってくれば、自ずと人が集まってまったりする仕掛けになっている。



 炬燵は脚、腰だけを温める。風通しのいい日本家屋で、体を部分的に温めてそれでどう

する⁈ と思うのだが、どうも脚を温まれば全身があったまるらしい。外は吹雪でも、一家

中の者が炬燵に足先だけ突っ込んで、布団を引っ被って寝てしまう、それで十分なのだ。


 炬燵は室町時代から使われたと、物知りAIさんが言っている。最初は囲炉裏の余熱に

台と布団を掛けたもの、であったらしい。囲炉裏を一晩中燃やしていたら酸欠になってし

まうから、部屋そのものをあっためるという発想はなかなか出てこない。



 その囲炉裏炬燵がだんだんと発展して、江戸時代には「やぐら炬燵」「置き炬燵」となり、

囲炉裏から解放され、普通の部屋にも置けるようになった。明治の世になって「掘り炬燵」

となり(バーナード・リーチ考案だそうだ)と進化して、現在は電気炬燵一辺倒。


 とまあ、炬燵は場所も取らず、大きな装置も要らず、それでもってなかなか効率のいい

暖房器具だということだが、これは紛れない日本の発明らしい。AIさんによれば、東アジ

アの暖房は、中国:床暖&ペチカ、朝鮮:オンドル、日本:囲炉裏・火鉢・炬燵だという。


 炬燵よ、また来年会いましょう。 




2026/03/19

山寺の日は暮れ残し春彼岸

 



 お彼岸、夜と昼の長さが同じになった。


 ということは、冬至からもう90日以上も過ぎ去ってしまった。「何もしなうちに! 」いう感

慨がわく。過ぎ去った日々を後から振り返るとまことに早い、目まぐるしいほどだが、人間

の脳みそを考えに入れなければ、年月はどこでも同じ速さで流れている筈だ。


 お彼岸だというのに、墓参りもせずに「日が長くなった」などと言って喜んでいては、ナニ

かに対して申し訳ないような気もするが、なにしろ先祖のお墓は遠い場所、おいそれとお

っとり刀で駆けつけるというふうには参らない。まあ近くても同じことかも知れないが・・・



 夏至、彼岸、冬至の意味合いは、もっぱら「太陽が今どのあたりにいるのか」を思い描く

よすがとして機能している。彼岸であれば、冬と夏の中間にいるのだナ、と想像する。そし

て季節の本領はお天道様の動きから2,3か月遅れるので、そんな風にまた思い描く。


 そんな想像を駆使して、暑い寒いに対しなんとなく身構える、という事になる。なにしろ

近頃、暑い寒いは体にようけこたえる、仇やおろそかに打っちゃって置けない。若い時に

平気だったものが、断じて平気でなくなってしまう、というのは哀しいことだ。



 それにしても「暑さ寒さも彼岸まで」という言い方はなんといううまい言葉か、その通り

ぴったしカンカン、実感に合い過ぎている。もうこれ以降、寒いなんて日はないよ、温かく

なる一方で、もう汗をかく心配をしなくちゃならないよ、と言っているのである。


 秋の彼岸であれば、いくらなんでも焦げ付くような日はもうないよ、少しは落ち着いてき

て、ひょっとすると涼やかな風も吹いたりするよ、と言っている。かくのごとくこの言葉は嘘

をつかない、そして彼岸というのも嘘のない一つに区切りである。



 悟りを開くとか、そっちの方はどうすんだ⁉

 




2026/03/18

温む水はしゃぎながらに堰を落ち

 



 

 実際に水が温んだかどうか知らないが、ともかく温かくなった。


 思えばもうお彼岸である。お彼岸となったからには、もう寒さは原則としてない筈である

から、ひとまずは安心していい。振り返ってみれば、暖冬には違いなかったろうが、なんだ

か案外に寒い冬だった。これは単に年寄りだからそのように感じるのかもしれないが・・・


 寒さに感じやすくなったから、どうもひたすら家の中に籠っていたイメージがある。必要

があって何度か横浜の端っこあたりへ出かけたが、それでも片道2時間程度の電車であ

るから、これもまあ冬ごもりの一形態とみなしてもよさそうだ。



 これからはずっと、こんな感じで冬を過ごすこととなるのかなあと思うと、なにやら面白く

ない。冬山やスキーは絶対に無理だとしても、籠ってばかりいたら気持ちがくしゃくしゃす

る。かといって、やたらに出歩けば寒いし疲れる。何かいい方法はないものか?


 どうもそんな勝手な思いを満足させるものは無さそうである。世の中はそんな都合よく

できていないらしい。仕方がないからやっぱり、基本的に籠ったとしても時としてくしゃくし

ゃしたら寒さを我慢して表に出る、という今までと同じ事を繰り返すしかない。



 そんな取り留めもない感想を後に残して、我が冬は終わったようだ。ひとつの季節に始

まりと終わりが、それは明確でないにしても、なんとは無しのぼんやりだとしても、有ること

はありがたい。なんとなく自分でも区切りがつけやすいように思う。


 この先望むのは、いつまでもカクシャクと元気で飛び回りたい、というような大それたも

のではなく、まあ、小さな不都合はあっても大きく健康を損なうことなく、自分の足で野っ

ぱらくらいを歩ければそれでいいように思う。まったく控えめでささやかな望みだ。


 今回は愚痴が多いなあ。


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