2026/04/02

いち日を歩き疲れてなお日永

 


 

 支流の小さな川だけれど、土手に桜のトンネルがある。

 

 両岸に植えてあるので、どっちを歩いても桜の中を通って上流に向かうことになる。この

ころの陽射しも掛け値なしに明るいが、その光が桜の中に入って乱反射すると、どこを見

ても眩しいほど世の中が明るい。風もないのに、花びらがひらひら宙を舞っている。


 染井吉野の並木が500mほど続いてから、次に枝垂れ桜の並木になる。赤い小さな花

びらを着けた枝がゆ~らりと風に揺れている。土手道を砂利を踏んでゆっくり歩いて行

。土手の脇に畑があり、眩しい光の中で、人々が畑の手入れに余念がない。



 桜の並木が途切れ、空が開けて青空が見える。向こうの丘陵が見えてきた。若葉が芽吹

き、それはまだ緑に染まらない、薄茶色のもあもあした霞のように見える。もう少しすると、

木の葉が萌黄色に染まり、羽毛のように柔らかく陽の光を反射する。


 土手道には、花桃の大きな木が現れる。桜をしのいで一層艶やかに豪華に咲き誇る。時

にはミツバツツジの大株も見え、花桃と饗宴を繰り広げる。陽光はどこまでも明るく温か

く、春がいっぺんに怒涛のように押し寄せてきたかに思える。



 支流のだいぶ上流まできて、神社の一角に出た。周りに畑が広がっている。この一角

に、今まで見てきた染井吉野、枝垂れ桜、花桃、ミツバツツジ、が勢ぞろいし、それに加え

菜の花、連翹、芝桜、そして丘陵の新緑、ぜ~~んぶひっくるめて咲いている。


 もうだいぶ歩いたはずだけれど、畑の人はまだ働いているし、日もまだ陰りそうに見えな

い。気付かぬうちに、陽が勝手に永くなったらしい。こうなってくると、ふと気づいたら、とた

んに陽が落ち込み、急激にうそ寒く薄暗くなる冬の日は、もう遠い彼方だ。







2026/04/01

待ち侘びていざ突入す花四月

 



 振り返れば冬の間中「春よ来い」と言っていた気がする。


 それは冬が始まった12月から、紛れもない春4月までの間、ひたすら春を待つ気持ちの

表れかもしれない。ということは、ひょっとすると我が心情的には、冬が12月から3月まで

の4か月間、ということになる。暖国に住んでも、冬が長あ~い。


 せっかく四季というものがある日本に居るのだから、それぞれの季節を等分に楽しまな

くてはソンだ! という気がする。だから冬の間も、いたずらに春を焦がれるのでなく、冬

は冬としてそれなりに楽しむテがあるはずが、寒さ、冷たさを楽しむにはどうする?。



 毎年同じことを書いているような気がするが、4月はともかく花の季節であり、その応接

にいちいち応じれば、まことにこころせわしい季節である。日本中の美しい花が、次から次

へと咲いては散り、散っては咲きして、こころ休まる暇がない。加えてネットも花の盛り。


 5月になると花の大爆発がだんだんと落ち着いてきて、若葉の季節、風薫る季節になる。

咲いたり散ったりが間遠くなり、それにつれてこころ急く気持ちも薄れてゆき、ことのほか

美しく照り映える山の緑も、なんとなく余裕をもって眺めることができる。



 ワシ等はぼんやりとこんなことを頭に浮かべながら、その日その日を送っている。そして

頭の上でミサイルや爆弾が、突然爆発する恐れもなければ、明日喰うめしの心配もひとま

ずしなくていい。なによりもまた、今日の夜は雨を遮る屋根と暖かい布団で眠れる。


 同日の同時刻、別な場所では、空から爆弾が降ってきて大勢の人が、突然に断りもなし

に殺される。俺を殺す権利は誰にもない、と大声で叫んでみても、周りでは知らん顔して

相変わらず爆弾を落とす。カミ様は、今生きている誰よりも、何よりもエライのだろうか。




2026/03/31

一つ見えあとに群れなす土筆かな


 

 土筆を見つけるとなんだか嬉しくなる。


 めったに見れない、というわけでもなく、春の若菜として特別旨いというわけでもないの

だけれど、このツンツンした姿を見ると、つい摘み取りたい衝動にかられる。思うに、このツ

ンツンは、芽が出たと思ううちにたちまちどこかに消えてしまうからに違いない。


 たちまち消えて、後には暴力的勢いでスギナが伸びてきて、すっかり地面を覆い隠して

しまう。親であるスギナの単調さを思えば、ツクシんぼのこのツンツン具合がなんとも愛ら

しく見えるようである。ツクシとスギナ、こんなに違う親子も変わっていて面白い。



 ツクシは摘み取るところに味わいがある。思い切り摘み取ってしまえば、それでもうなん

だか満足してしまう。むかし摘み取ったのを持ち帰り料って貰ったことがある。が、もう金

輪際ツクシの持ち帰りは厳禁である、旨申し渡され以来、摘み取り衝動を抑えている。


 手を真っ黒に汚してツクシの袴を取り除き、しかる後に油いためだか、お浸しだかにする

のだが、ドエライ手間暇かけて出来上がりは皿の底にちょっぴり、くたっとだらしなく寝ころ

んだツクシである。とてもじゃないが、料理の間尺に合わなすぎる、ということだ。



 不思議なのは、親子でこんなにも形が違っていていいもんだろうかと思う。二つ並べて、

「親子だあ! 」と言っても「ウソだあ! 」としか言えない。そういうのがもう一つある。ふ

きと蕗の薹、長い間、ほぼ大人になるまで、これが親子だとは露ほども考えなかった。


 生物はどうしてこんな複雑怪奇、魑魅魍魎的なことをやってのけるのだろうか。そう思っ

て気が付いたが、昆虫の親子もまた似ても似つかないのが多い。イモムシが蝶になるなん

ていったい誰が信じるだろう。なんのためにそういうことをやるのか⁉


 世の中かは不思議に満ちている。




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