旅は人々の憧れだと思う。
観光、旅行いろいろあるけれど、「旅」と書いてみると、単なる体の移動ではなく、なにか
行った先の人との関わり、みたいなものが付着しているように思われる。だから単に行っ
た先の風景を見、旧跡を訪ね、だけじゃない、微かな期待とまた畏れとを感じる。
乗り鉄の知人はこう言っていた。「ローカル線に乗る楽しみは、車窓風景もさることなが
ら、乗り合わせた婆さんや爺さんと話をすることだね。二言三言でもその土地の話を聞く
のは楽しい、例え方言がきつくて半分以上理解が及ばないとしてもだ」
昔の人は予定も計画も立てず、まるで行き当たりばったりのようにして旅をしたらしい。
荷物だって巨大なゴロゴロを引っ張たりせず、小さな振り分け荷物程度で極身軽に出か
けた。芭蕉の旅もそのようであり、各地の知人が宿も飯も十分にお世話してくれたのだ。
菅江真澄のことを書いた本を見たが、彼こそまさに放浪の旅の生涯を送った人であった
らしい。30歳ぐらいで故郷三河を離れ、以来みちのくや蝦夷地を経巡って、秋田あたりの
豪農に止宿して日を送り、遂に故郷へ帰らず旅の異郷の空で生涯を閉じた。
昔はどうもこの手の放浪型の旅ができたらしい。生活に必要な一切合切を旅先の泊ま
り宿で見てくれるわけである。その代わりに農家を手伝え、とも特段要求されなかったよ
うだ。泊めてくれる農家にとっても、諸国を経巡った真澄の話が興味深かっただろう。
これを現代に引き移してみるとどうなるのだろうか。日本各地を放浪する、という意味合
いでは車中泊などが似ているかもしれない。しかし車中泊は地元の人との交流が少ない
ようである。東南アジアで交流を深めている例がある。コンドミニアムなどと言う安宿に泊
まり、地元民と交流しながら旅を続ける人(高齢者)もいる。
「旅」は案外「案ずるより産むが易し」なのだろうか。
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