2025/09/05

来しかたを悔いる夜にはみみず鳴く



 

 「来しかた」など迂闊に思い出してはいけない。


 そんなものを思い出して悔んでも、もうどうにもならんし、一文にもならん。ただ気分が落ち込むだ

けであって、なんの役にも立たない、だから、ひょいっと頭に浮かんだその思いは、早々に頭を振って

どこかに放っちゃり投げるに限る。そして固く封印して、もう頭に浮かばないようにする。


 ではあるけれどさりながら、年寄りには「来しかた」しかないから、どうしても頭に浮かぶ思いは「来

しかた」になってしまう。未来というものがほぼないのだから仕方がない。そうなると、ミミズだって鳴

くかもしれないし、カメだって鳴くかもしれない。実に困ったもんだ。



 これを防ぐテはないもだろうかと愚考する。来しかたがダメだから、「行く末」を考えるてみてはどう

か? ただし遠い「行く末」というのは無いのだから、ほんの間ぢかの行く末、まあ、一か月ないし三

月ぐらいの近未来を考える。それならもしかすれば有るかもしれないではないか。


 その短い未来に対して、何をするか考える。このとき、将来の自分の在り方、などというものを考え

てはいけない、そんなものは無いのだから、まあ遊ぶことを考える。なにをして遊ぼうか、どういうふ

うに遊ぼうか、これだけをゆるゆると考えて、「来しかた」の思いを頭から排除する、これがいい。



 さて、向こう3か月間ほどの期間に何をして遊ぶか、これが問題だ。年寄りに未来はないかもしれな

いが、体力、というのもほとんど残っていない。遊ぶにはなにしろある程度体力必要だ。なのに、その

残存がほとんどない。となれば、登山、冒険、流離、海外(金もない)、などは出来なくなっている。


 残された可能性を吟味してみれば、ほとんど何もないということになる。大いに困るではないか。そ

の隙間に何かないか? 思い浮かぶのはせいぜい野っぱら歩きぐらいのものだが、一つだけやって

てみたいことがある。SUP、これなら体力、金、なんとかなりそうな気がする。無理だろうか⁉


 ミミズなんかに鳴かれたり笑われたりは御免だ。




2025/09/04

台風の雨さえ頼る照り続き

 



 いやはや、こんなにも涼しく感じるとはなあ。


 前線が通過して北太平洋に抜け、あまつさえ台風が近づいて雨模様、空気がひやひやと冷えてき

たらしい。しかし気温は28.6℃、夏日であることに変わりないのだが、体感とすれば一気に涼しいな

あ、とじられる。たった4,5℃の違いだけれど、この違いのなんと大きいことか。


 ヒトの感覚というものはこういうものなのだろうか、それとも今年の殺人的な暑さに、いささか体が

順応したためなのだろうか。こうなれば、近づいている台風にうんとこさ雨を降らしてもらって、日照

りの日本列島を一気に涼しくしてくれることを大いに期待したい。台風よ、頼むぜ。



 いままで、降るか降るかと期待させられ、その都度見事に外されて、雨らしいものが落ちてこなかっ

たので、今度の台風に期待する。しかし、風は要らん、雨だけで結構、それも洪水になるほど降っては

いかん、あくまでも適当な量を適当なだけ降らせて、そしてどこかへ去ってくれ。


 いつもいつも、自然災害はトンデモ災厄を持ってくるのだから、今回くらいはこっちの言うことを素

直に聞いてくれてもいいだろう。いつもこっちは、たいがいのことを我慢しているのだから、たまには

こっちの言うことに耳を貸してくれてもいい筈だ。お互い、安生やろうや。



 しかし我が日本ほど自然災害が、大手を振って歩いている国はないのじゃなないか。まずは地震、

列島のどこかでいつもいつも地面が揺れている。勢い余って大地震がこれでもか、これでもかという

ほど襲い掛かって、甚大な、手の施しようもないほどの災害を置き土産にしている。


 そして今では梅雨、以前は比較的穏やかにそろりそろりと来ていたのが、オンダンカのせいなのか

どうか、どばしゃあ~っと降って、どこかしらが洪水になって泥だらけになる。更に追い打ちをかけて、

台風、またしても大雨を降らせ、場合によって大風を吹かせ、とんでもない仕打ちをする。


 この災害列島によくぞ我慢して住んでいるナア、我ながら。




2025/09/03

山かげに胡弓ふるえる風の盆

 



 「風の盆」は盆踊りではないらしい。


 「盆」と付けば、なんでもかんでも盂蘭盆会の関係だと思い込んでいたが、どうもそうではないらし

い。教えられるところによれば、風の盆は二百十日を迎えての風鎮めと、豊作を祈る祭りの踊りな

のだそうだ。だから一般のお盆が過ぎて、二百十日ごろの行事というわけか。


 阿波踊りは盆おどりの一種なのだそうだが、風の盆の踊りは全く違う。阿波踊りは陽気で、かつ華

やかでどう見たって太平洋側の踊りだが、風の盆の踊りはしっとりしめやかで、哀愁漂う日本海側の

踊りだと思う。胡弓の音色がまた切々たる哀切を掻き立て、遠い昔へ思いを誘う。



 阿波踊りが目で見てその華麗さを楽しむものとすれば、風の盆は耳で聞いて想いを沈めていく、そ

な違いがあるように思う。どうも目よりは耳の方が一層感情に近く、情動をかきたてるようだ。絵を

見て感情的になる人は少ないだろうが、音楽を聴けば下手すると涙を流したりする。


 なぜこういう違いがあるのか、そこんところは知らないけれど、どうも目は理性を、そして耳は感情

を主に受持っているのではないかと愚考する。もちろん目だって感情をかきたて、懐かしい故郷の山

河に涙することまもあるし、耳が相手の騒ぎ立てを聞き、逆に落ち着こうと理性的になったりする。



 外界を感じ取る感覚はいずれも脳みそに何かの信号を送っているのだろうが、五感それぞれに脳

みそでその感覚に見合った処理をするのかもしれない。目や耳は上に描いたような処理、残った嗅

覚、触覚、味覚もそれぞれに脳みその処理が違うのかもしれない。


 例えば嗅覚、味覚は専ら食えるもの食えないものの探索、だから理性や感情などには関係しない。

触覚はどうも一部が感情と結びつくようだ。猫や犬だって撫でられれば、大変気持ちよさそうな顔に

なる。喜怒哀楽の「」に結び附いているのではないか、と思われる。・・・ま、閑話休題だナ。


 古い時代の歌や踊りは、なぜかしみじみする。




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