2025/09/08

コスモスや我が行く道は里のみち

 



 コスモスが揺れる里道を歩くのは気分がいい。


 里の中の道そのものが気分よく歩けるのに、そのうえコスモスが色とりどりに咲いて、ゆったりと風

に揺れ、空は青いし陽は穏やかだし、これ以上の気分の良さはない。たぶん里道がいいというか、

舎に惹かれるのかもしれない。田舎をひとりぽつねんと歩いていると胸が広がっていく心地がする。


 逆にたまに都内に出ると、ビルの谷間を歩いていてだんだん胸に蓋をしてしまうような気分になる。

それと自覚はしないのだけれど、どうしても気持ちが構えてしまう。だれも獲って食おうという人はい

ないのに、全身を鎧で固め、こころにしっかりと錠をかけ、ぼんやりした気分を覆い隠そうとする。



 どうしてこんな按配になってしまうのか、自分でも分からないが、都会では”田舎者丸出し”がいま

だ治らず、そのため身構えてしまうのではないか、反対に、田舎の里道では、幼少のころから身に沁

み込んだ田舎の風景に”思わず郷愁”が湧き出してしまうからなのではないかと思う。


 しかしながら、都会生まれ都会育ちの人も、なにやら田舎に憧れるようで、これがよく分からない。

都会育ちの人に田舎への郷愁はない筈だが、YouTubeを見ると、田舎暮らし、山里古民家再生、自

給自足生活、などなどわらわらと出てくる。たいがいが都会で生活していた人たちだ。


 例えば。都内生まれ都内育ちのまだ若い女性が、あるきっかけで、ふと田舎に行って病みつきとな

り、今では古民家に住み、無起耕で野菜を作り、糠味噌をこね、囲炉裏を焚いて、まるで戦前の田舎

の暮らしそのままの生活をしている。それも、嬉々としてその生活を楽しんでいるようなのだ。



 こうなると、田舎への憧れは、山育ちの単なる郷愁でもないように思えてくる。ここで思い出すの

は、養老孟司の口癖、「参勤交代論」=「都市と田舎の往復居住の勧め」。なぜそれが必用かと言え

ば、システム化、効率化され、感覚ではなく脳「意識」で考えることを優先されがちな現代において、

地方社会や自然の中に身を置くことが必用なのだ、ということらしい。


 都会育ちが、あえて田舎に住みたがるというのは、いよいよ養老孟司さんの愁いが現実になったの

だろうかとも思える。ただし、田舎に住みたがる都会人は、数とすれば少ないだろうから、あながち養

老さんの警告に従うようになった、とは言い切れまい、この風潮はいったいなんなのだろう。


 まあ、田舎歩きが楽しけりゃ、自分はそれで十分。




2025/09/06

さすがにも葛の繁茂の止まりけり

 



 葛はうんと威張っている。


 向かうところ敵なし、そこら中が我が天下、どこでも伸びてかって放題、ぐずぐず言う奴あ巻取っ

締殺してしまう。なにしろ夏中ドカドカと延び放題に延びて、人が歩く道でさえひょっとすると覆い

して知らん顔、その増殖繁茂ぶりはどこまでも止まることがない。


 このイケ図々しい繁茂は周りの植物に対する思いやりが一切なく、「ちょっと遠慮するかなア」とい

う自覚に欠けている。たまたま葛の近くに芽生えた草は大迷惑をこうむる。たちまちのうちに絡みつか

れ、押し倒され、上に大きな葉を広げられて日光さえ遮られてしまう。



 かような案配で、葛は「植物のクズ」と言われて嫌われている。植物がみんな、どうしようもない、と

諦め、出来るならそばに寄りたくないと匙を投げている。しかあ~し世の中は広いものである。この

葛の上前を平然とハネるやつが存在する。それは、だれあろう人間である。


 春先に葛が若葉を出し始めると、そそくさと行って若葉を毟り取って天ぷらにする。夏に葛の茎が

遠慮なく伸びたところで、刈り取って綱や繊維にする。花が咲けば、これも毟り取って来てお茶にす

る。そればかりか、根っこまで掘り起こして、葛粉にしたり餅にしたりする。



 人間は葛の全身を隈なく搾取してはばからない。葛の方も「いやあ、オレもいけ図々しさでは引け

をとらないと思っていたが、負けた、人間には負けたよ」と嘆いているという。それはもっともだ、人間

はこの地球上で一番傍若無人で図々しい生き物、なんの葛如きにしてやられるはずがない。


 しかしそれも今は昔、葛の若芽を天ぷらにする人も、花をお茶にする人も、ましてや根っこを掘り起

こして葛粉を取り出す、なんてべらぼうなことをする人も、もういないだろう。かくのごとくにして、葛

の天下が再び巡り来たようなわけで、いま葛は土手っぱらで好き放題のかって放題を続けている。


 葛根湯だけは年に数回お世話になってます。




2025/09/05

来しかたを悔いる夜にはみみず鳴く



 

 「来しかた」など迂闊に思い出してはいけない。


 そんなものを思い出して悔んでも、もうどうにもならんし、一文にもならん。ただ気分が落ち込むだ

けであって、なんの役にも立たない、だから、ひょいっと頭に浮かんだその思いは、早々に頭を振って

どこかに放っちゃり投げるに限る。そして固く封印して、もう頭に浮かばないようにする。


 ではあるけれどさりながら、年寄りには「来しかた」しかないから、どうしても頭に浮かぶ思いは「来

しかた」になってしまう。未来というものがほぼないのだから仕方がない。そうなると、ミミズだって鳴

くかもしれないし、カメだって鳴くかもしれない。実に困ったもんだ。



 これを防ぐテはないもだろうかと愚考する。来しかたがダメだから、「行く末」を考えるてみてはどう

か? ただし遠い「行く末」というのは無いのだから、ほんの間ぢかの行く末、まあ、一か月ないし三

月ぐらいの近未来を考える。それならもしかすれば有るかもしれないではないか。


 その短い未来に対して、何をするか考える。このとき、将来の自分の在り方、などというものを考え

てはいけない、そんなものは無いのだから、まあ遊ぶことを考える。なにをして遊ぼうか、どういうふ

うに遊ぼうか、これだけをゆるゆると考えて、「来しかた」の思いを頭から排除する、これがいい。



 さて、向こう3か月間ほどの期間に何をして遊ぶか、これが問題だ。年寄りに未来はないかもしれな

いが、体力、というのもほとんど残っていない。遊ぶにはなにしろある程度体力必要だ。なのに、その

残存がほとんどない。となれば、登山、冒険、流離、海外(金もない)、などは出来なくなっている。


 残された可能性を吟味してみれば、ほとんど何もないということになる。大いに困るではないか。そ

の隙間に何かないか? 思い浮かぶのはせいぜい野っぱら歩きぐらいのものだが、一つだけやって

てみたいことがある。SUP、これなら体力、金、なんとかなりそうな気がする。無理だろうか⁉


 ミミズなんかに鳴かれたり笑われたりは御免だ。




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