2025/11/20

山はもみじコーヒーの香りベンチから




 御岳神社の裏のあたりに小さな谷間が開いている。


 ロックガーデンなどと、こじゃれた呼び名がつけられているようだが、行ってみたら岩や

石ころがごろごろしていて、緩やかなU字の渓が展開していた。ちょうど秋が深まる時期だ

ったので、周りの雑木がモミジの赤はないけれど、黄や茶に色づいて明るい。


 素朴なベンチとテーブルが設えてあり、若者たちがコーヒーのいい香りを振りまいてい

る。森の中のカフェがそこここに開店営業中である。爺さんの年代はキャンプや登山は日

常から離れることだと思い込んでいるが、今の若者は日常を無理やりでも持ち込んでくる

らしい。



 夏に茂り放題だった雑木の葉の半分ほどがすでに散って、隙間があいて日が差し込み、

葉っぱの緑が黄や茶に変わって、樹幹は大変明るい。明るい谷間に明るい人たちが集ま

って来て、笑いさざめき、まるでビルの中の明るいカフェの如くである。


 谷間の場所によっては、わずかなモミジを加えて、赤、黄色、茶色、そして緑、それぞれ

の枝が横ざまに広がって、この4色の霞が棚引いているように見える。別段モミジの名所

でなくても、その時期にジャストであれば、どこでもそれなりにモミジは美しいと知った。




 この辺りがこんな按配になってくると、もう冬は近い。あとは雑木の葉は散る一方であり

たちまち裸の枝が空に突き刺さり、山肌はくすんだ灰色に塗り込められる。そうして1か

月、2か月、忍の一字で待っていると、空が明るくなって裸の木の枝に霞のようなものが

纏いつく。


 こうしてまた、季節の繰り返しが始まるのだが、この繰り返しは何べん経験しても、もう

飽きたから要らない! という事がない。何回だろうと何べんだろうとOKである。何べん

繰り返そうと、その度に新鮮であり、その度に愛おしい。だから飽きるというこはない。


 神の定めに反してそう思う。




2025/11/19

柿落葉現代アートの一、二枚





 柿の葉は散ってなお華麗である。

 目の覚めるような色合いを保ち、様々な不思議な形を織りなし、現代アートさながらに

見えてくる。この画像はたまたま濃い青地の中に赤い点々が、窯変天目のような模様を描

き出していて、ついつい立ち止まってじっくりと眺めることとなってしまう。


 柿の葉っぱは、萌えだした新緑のころは、表面が油を塗ったようにつやつやと陽を反射

してとても美しいし、秋ともなればこのように変身して、絵画のような趣を呈している。ひょ

っとすると柿の葉は、落葉樹の中でもモノすんごい実力者なのではあるまいか。



 秋に柿木を見れば、どうしても実の方に視線が奪われる。あの実は甘いのか渋いのか、

旨いのかまずいのか、そっちの方が大事であって、柿の葉っぱをしげしげと眺める人はそ

う多くない。しかし実力はある、だから柿の葉っぱは落葉紅葉樹の影なる実力者なのだ。


 意外なことに、すし飯を包んでその実力をいかんなく発揮するものもいる。柿の葉寿司

というのは、小さく包んだ見た目も旨そうだし、なんと言っても可愛らしい。これぞ実力で

あって、悔しかったら楓やモミジ派の葉っぱで、すし飯を包んでみたらどうか。



 葉っぱが全部散ってしまって、棒切れのような枝に柿の赤い実だけが残っている、とい

う眺めは、のどか、牧歌的、閑寂を全部ひっくるめて一語にしたようなもので、人の郷愁を

イタク惹きつけて止まない。ここに夕焼けとカラスを配置すれば一層懐かしい。


 この点でも並々ならぬ実力者であるのだが、惜しむらくは人がその実力を正当に評価し

ない傾向がある。「なぁんだ、柿かあ! 」で澄ましてしまっている。これでは柿がかわいそ

うである。その実も花も木も地味々々ではあるが、実力はやはり正当に評価したい。

 やたら柿の依怙贔屓だが、好きなんだこの実が・・・




2025/11/18

小春日にインフルエンザの床を上げ

 



 いやはや、この半月がすっぽりとどこかへ消えてしまった。


 ように感じたインフルエンザの日々だった。まさか自分が罹患する、などと考えもしなか

った。なにしろ丈夫一式の体だし、流行り病にそそのかされほど神経がこまやかではな

いし、あくまで原始的にあくまで粗雑にできているはずなのだから、と思っていた。


 高熱は出なかったけれど、呼吸がやたらに苦しい。寝ていると眼前にスマホ画面が現

れ、真ん中が丸く白っぽい棒杭のようなものが浮かんできて、それはどうや喉と気管支で

あって、棒杭のようななものをもっと広げて息の通をよくしろと訴えてくるらしかった。



 それが一例で、スマホ画面は次から次、現れては何事かを訴え、命令し、指示する。どう

も本人はスマホ画面をちょこっと何かすると、この苦しみから逃れられるのだと思い込ん

でいあるらしい。現実は虚空の中で目を瞑っているだけで、スマホ画面など見ちゃあいな

いのだが、それがわらわらと立ち現れ、スマホ画面の夢想、幻想が止まらない。


 ここの於いて幻想と現実が逆転した。苦しさの中で脳に浮かんだスマホ画面は、我が幻

想のなせる業、だが当人にっとっちゃあ、まったくの現実である。画面をちょこっとなんとす

れば苦しさから逃れられる、と思い込んで揺るがないのだから・・・



 スマホ画面の方が幻想なのだ、と言い聞かせてやっとこの幻想が減ってきた。しかし息

苦しさはちっとも減らない。別な医者に行ったら「肺炎よ! 」と言われ、なんだか段々と

大ごとになってゆきそうな気がする。またまた馬に食わせるほどの薬をもらった。そうして

ここへきて、ようやく回復の兆し、ああ! どこかへぶん投げてしまった半月の日々。


 でもまあ、永久にぶん投げっぱなしにならずによかったかも。



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