2025/11/22

銀杏散り拾って帰る母と娘(こ)と

 





 散ったばかりのイチョウはまだ瑞々しい。


 きらきらと陽を照り返して、その美しさにだれでもどうしても一二枚拾ってみたくなる。散

ってもイチョウはエライ! まして木に着いて黄金に染まったのが、わずかの風にそよいで

青空をバックに煌めくさまは例えようもない。ことに神宮外苑が見事だ。


 しかし、東京はイチョウがことに多いように思う。東京大学の構内はたまたま立ち寄った

のだったが、その黄金色に囲まれた素晴らしい景観に驚いた記憶が残っている。外にも

見事な銀杏並木など数あることだろうと思うが、身近では甲州街道八王子の並木道、昭

和記念公園のイチョウのトンネルなどを思い浮かべることができる。



 お寺やお宮の境内には、ときとして堂々たるイチョウの古木が聳え立っていることがあ

る。さすがに前に立てば、その威風堂々たる姿に圧倒され恐れ入ることが多い。まだ葉っ

ぱが青い時分には、その大きな腕で涼し気な影を作って休ませてくれる。


 ひとたびこれが色づくやいなや、真っ青の空に砂金をちりばめたように黄色い葉っぱが

煌めき、ときあって、はらはらと散り敷けば、辺り一面黄金絨毯と変わって、そのあんまり

にも無辺際な散敷ように、これまた圧倒され恐れ入ってしまう。



 しかしイチョウはなかなか複雑な木であるらしい。オスとメスが分かれているという。実

をむすぶのもなにやら複雑な工程を経ているらしいし、裸子植物だともいうし、安い頭で

は何がどうしたのかよく分からない。それでもって化石と言われるほどに古くからの生き

残りでもあるらしい。


 しかしそんな面倒くさいことは分からないでも、イチョウは見た目が断然いいい。境内の

一人孤高の姿もいいし、数を頼んで並木の圧倒的な量感もまたいい。春の新緑の柔らか

な葉っぱもいいし、秋の夕日の丘に金色が散るのは当然いい。




2025/11/21

膝抱いてぽつねんと独り秋惜しむ





 タイトルのような句を思いついたが、はて・・・


 これに見合うような写真はどこにもない。あろうはずがない。写真はきれいなものを写す

のであって、薄汚いゴミみたいなものはふつう写さない。一句一ブログはいいけれど、し

ばしばこのことで悩んでしまう。つまり句に応じた適切な画像がないことだ。


 ところがぎっちょん! 近ごろ勝手にマイクロソフトに入って来て居座った、なにやらAI

が絵を作成してくれるソフトがある。長い間知らん顔をしていたが、ここでそれを使ってみ

た。そしたら最初は少女の画像ができ、これではあんまりにも看板に偽り、なので修正。



 これはAIに、絵のイメージとして、俳句そのものを書き込んだだけで出来上がった絵だ

が、「ぽつねん」とか「惜しむ」とかの言葉を理解して、絵を作成しているとは思えない。た

だ「膝を抱く」「独り」「秋」などの言葉通りの絵を描いてみた、ということだろう。


 こちらのイメージ通りにはなかなかいかないが、句に書いてある言葉がおおむね反映さ

れた絵が出来上がった。この絵はアニメっぽくしてみたが、写実的にとか、シュールレアリ

スム的にとか、ともかくいろいと変換できるボタンもあり、素人の遊びにもってこいだ。



 この短からぬ人生を、一ったれの絵も描けなくて過ごしてきた。その才能がまるっきり欠

落していて(・・・そういえば音楽だって一粒もできない、絵と同様だ)、芸術関係とは全く

無縁な寂しい来し方を歩んできて、そういうものだと諦めていたが、ひょっとするとこれで

絵のようなものが描けるかもしれない、こりゃ大ごとになった。


 絵の中の老人は憂い顔をしているが、老人は楽しくたっておおむね憂い顔をするもの

だ。だからこの老人が哀しいわけでもないかもしれない。秋から冬への季節の移り目を惜

しみつつ、なにごとかを懐かしく思い出しているのかもしれない。


 今後はときどきこの手を遣おうかと思う。




2025/11/20

山はもみじコーヒーの香りベンチから




 御岳神社の裏のあたりに小さな谷間が開いている。


 ロックガーデンなどと、こじゃれた呼び名がつけられているようだが、行ってみたら岩や

石ころがごろごろしていて、緩やかなU字の渓が展開していた。ちょうど秋が深まる時期だ

ったので、周りの雑木がモミジの赤はないけれど、黄や茶に色づいて明るい。


 素朴なベンチとテーブルが設えてあり、若者たちがコーヒーのいい香りを振りまいてい

る。森の中のカフェがそこここに開店営業中である。爺さんの年代はキャンプや登山は日

常から離れることだと思い込んでいるが、今の若者は日常を無理やりでも持ち込んでくる

らしい。



 夏に茂り放題だった雑木の葉の半分ほどがすでに散って、隙間があいて日が差し込み、

葉っぱの緑が黄や茶に変わって、樹幹は大変明るい。明るい谷間に明るい人たちが集ま

って来て、笑いさざめき、まるでビルの中の明るいカフェの如くである。


 谷間の場所によっては、わずかなモミジを加えて、赤、黄色、茶色、そして緑、それぞれ

の枝が横ざまに広がって、この4色の霞が棚引いているように見える。別段モミジの名所

でなくても、その時期にジャストであれば、どこでもそれなりにモミジは美しいと知った。




 この辺りがこんな按配になってくると、もう冬は近い。あとは雑木の葉は散る一方であり

たちまち裸の枝が空に突き刺さり、山肌はくすんだ灰色に塗り込められる。そうして1か

月、2か月、忍の一字で待っていると、空が明るくなって裸の木の枝に霞のようなものが

纏いつく。


 こうしてまた、季節の繰り返しが始まるのだが、この繰り返しは何べん経験しても、もう

飽きたから要らない! という事がない。何回だろうと何べんだろうとOKである。何べん

繰り返そうと、その度に新鮮であり、その度に愛おしい。だから飽きるというこはない。


 神の定めに反してそう思う。




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