2025/12/08

立ちすくむ寒さは山の無人駅

 




 齢を重ねると周りに人が減って無人駅の如くである。


 ぽつねんとホームに立って周りを見渡せば、雪が降っていなくとも、寥々として寂しさが

身にしみる。遅れている電車はいつ来るとも知れず、いつまで待っていても近くに人の影

は現れない。齢をとるという事は、こういう事だったとは夢にも思わなかった。


 しかし、と一方でまた考える。線路が引いてある以上、いつかはきっと電車は来る。ただ

待っていればいい。そうして車窓から暖かい灯影をにじませながら、寂しいホームに止ま

るだろう。そしたら暖房の効いた車内に入って、同乗者がいて、きっと安心する。



 しかし考えてみると(…特別に考えてみなくても)、人は社会的動物であって、人の中で

暮らすようにできているらしい。しかしながら、その人の中には自分にとって好ましいこと

だけをしてくれるとは限らない。なにしろ、誕生して以来この方、戦争は無くならない。


 それがしばしば煩わしくなって、「孤独がいい」などと贅沢をこいたりする(らしい)。そん

なことをこいたりもしてみるが、どうしても人は人の中でしか生きられないようだ。煩わし

いけれど、仕方がない、ここんところの兼ね合いが、実は難しいんだろうナア。



 けれども「孤独がいい」などとわざわざ言いつのらなくても、齢を重ねるにしたがって、否

でも応でも孤独にならざるを得ない。育てた子供は大きくなってもう寄り付かないし、同

年の親類縁者も、はや年取ってきて一人欠け二人欠け、ふと気づくと居なくなっている。


 孤独に生まれたからにゃあ、最後も孤独だ、と誰かが決めたわけでもないだろうが、どう

もそんな塩梅になっているようだ。そう思って、しかたがないからそこは諦めて、孤独の中

に何か楽しみはないだろうか⁉ なんだっていい、ほんのひとときの楽しみだけでいい。





2025/12/06

すでにして緑が芽吹く冬田かな

 



 目の限りの田んぼが枯れはてた。


 しかし畦道はなにやら緑で、どっかと腰を下ろして休憩し、周りをよく見てみると、冬枯

れの今、若草が萌えだしているらしい。自然界はもうすでに春の準備をして、虎視眈々い

つ春になってもいいように身構えているのかと思う。エライもんだ!


 考えてみれば、自然の草花はなにも、人間の作った四季にきちんと合わせて、芽生えた

り枯れたりしなくてもいい筈だ。それぞれの草や花の都合というものもあるだろうし、それ

ぞれに任せておけばいい。冬のうちに芽を出すとはケシカラン、など言ってはいけない。



 と言うことなんだろうけれど、こっちは知らないもんだから、なんで春でもないのに草の

芽が出るんだァ、とビックラこく。これから季節は一途に、頑固に冬になって、日が短くな

り、寒さがいやらしくなり、この世のすべては仮死状態、休憩に入る、と思っている。


 そういうこっち側の思い込み、固定観念をぶっ壊すのは容易ではない。なにしろン十年

もの長い間、そういう固定観念まみれになってきた。そうそう簡単には壊れそうもないが、

現物、つまり冬の若草をこの目で確認すれば、これはもう手を挙げるしかない。



 そういうふうに、自然界を細かく見ていけば、不思議や驚きがいっぱいあるに違いな

い。ただこっちにその「目」がないものだから、大雑把に乱暴に見ただけで澄ましているの

だろう。もっとも視線の先の、ナニに驚き、ナニを不思議とするか、それぞれだけど…


 この世界に存在する「モノ」を見る、という事は、これで案外難しいことなのんだなと思

う。日ごろただ何となく見過ごしているけれど、よくよく、穴が開くほど見つめてみれば、ま

ったく違った何かが見えてくるかもしれない。ただ、それを見るのがいいことかどうか?







2025/12/05

雪国や宿の朝餉に納豆汁

                             (AIさん作成)

 

 納豆汁はあまり一般的でないように思う。


 などと言えば、秋田山形方面から叱られるかもしれないが、身の回りではあまり見かけ

ないようだ。納豆、それだけなら毎日食してン十年、もはや欠かせない食材になっている

が、納豆汁となると、ひょいっとパックから出して即食う、というわけにはまいらない。


 AIさんが教えるところによれば、江戸時代には全国的に食べられていたようだが、今で

は秋田山形方面の郷土料理になっているようだ。作り方は単にみそ汁に納豆をぶち込ん

で、ハイ、おわり! ではなく、納豆はすりつぶし、ほかの具も入れるのだという。


 具材としては、里芋、豆腐、油揚げ、きのこ、山菜などたくさん入れ、納豆はすり鉢で丁

寧にすり潰すという。いやいやこうなっては、単に豆腐をぶち込んだみそ汁とはまるで別

物、そう易々とは作れるもんじゃないない、だから今の時代には向かないのだろう。



 しかし、粒が見えないほどよくすり潰した納豆のとろみは、ほかの具材とよく馴染み冷め

にくく、体を芯から温めてくれるようで、雪国の食物としてピタンコだと思う。納豆を煮る、

と思えばその臭気や大変なものだと想像するが、かえって臭みもなくなるのだそうだ。


 寒い冬の朝、食卓にほかほかと湯気が立つ納豆汁がある。半信半疑で口にすると、温

かい汁がなめらかに喉を滑って、胃袋まで温めてくれるような気がする。ふう~~っと体

のこわばりが溶けて、なんだか幸せとはこういうものかと思わされる。



 そんなに食いたければ、自分で作りゃいいじゃないか、と当然考える。が、なにごとも面

倒くさいことはイヤだ。納豆をすり鉢で粒がなくなるまで丁寧に潰す、というのが、トテモ

面倒くさそうだ。それを考えると、即諦め、「いいや、また今度」、となってしまう。


 こんなこっちゃあ、到底グルメになれない。テレビは「絶品グルメ! 」と叫ばない日はな

いが、現実にはどこを探しても、「グルメ」など見当たらないような気がする。まあ、グルメ

でなくていいから、せいぜい旨そうなものを妄想して、ニヤリとするのがいいや。


 ところで「郷土料理」なるもの、今だ健在なりや?




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