2026/01/14

群青を背に寒梅の冴え冴えと

 



 近ごろの空は抜けるように青い。


 その青空の中で寒紅梅が咲いて、空気が澄んでいるせいか、凛とした美しさがある。こ

れからますます寒さが厳しくなるから油断はできないけれど、梅が咲いている光景だけ見

れば、なにやら春が迷い込んできた、と思い込んでしまいそうである。


 しかしこの種類の梅はなにを考えているんだろうか? さぁ冬だ! となったらすぐに咲き

始めるらしい。他の花が全くない時期だから、賞讃は独り占めだが、別の種類は2月、3

月、4月まで、次々と咲いてくれるのに、この寒梅だけがひとり浮き上がっている。



 雪が積もった真っ白な平原に、一本の寒紅梅が凛として咲いている、そんな風景を想像

してみる。そこへひょう~と北風が吹いてきてもいいが、やはり寒さは尋常でない方が好

ましい。その寒紅梅は、寒さに立ち向かっている美しき人であるように思っても構わない。


 まあ、想像力が極めて貧困ゆえ、こんな貧弱なものしか浮かばないが、ならば、かの清

少納言はなんと言っているか、得意の「どたん場検索」を作動させてみた。・・・「木の花

は、濃きも薄きも紅梅・・・ん! たったこれだけ、あんなに饒舌な人がこれっぽっち!



 寒さの中に凛と咲く寒紅梅は、だれでも美しいと思うだろうけれど、「どたん場検索」を

作動させると日本酒ばかりが出てくる。越乃寒梅はチョウ有名だが、寒紅梅という銘柄の

蔵元もあるようだ。自分もどっちかといえばお酒の方に興味が向かいがちだが・・・


 それにしても、花の方の寒梅ないし寒紅梅はあまり人気がないのだろうか。枕草子だっ

てちょびっとしか触れていないし、人気うすだなあ。でもまあ、この花が一年の花の咲きだ

しっぺなんだから、それなりの処遇を考えねばならないだろうと、考える。


 寒梅、花はこれからだ!




2026/01/13

白馬嶺の渓に飛び込むスキーかな

 



 今日はスキーどころではない大荒れの天気かもしれない。

 

 けれどスキーといえば白馬の八方尾根を思い出す。蔵王やら志賀高原やら苗場やらそ

してニセコやら、随分いろんな地方のスキー場に行き、辿り着いたのが八方尾根。なにし

ろコースが恐ろしくい長いし、眺めは好いし、雪質も申し分ない。たちまち虜になった。


 以来シーズンになると八方尾根を思い出して、のこのこ出かける按配となった。今では

考えられないかもしれないが、そのころはまだ民宿がいっぱいあって、といってもまるっき

りの農家ではなく、民宿という名の簡易的、安上がりの宿があって、これがよかった。



 最初のころには、上越の石打あたりの民宿にも止まったことがある。これはもう完璧な農

家で朝になると囲炉裏の周りに宿泊者が集まって、煙にいぶされながら宿の家の人と一

緒に、同じ朝飯を食っていた。今では考えられないことであるが、昔の民宿はそうだった。


 これはこれである種懐かしく思い出されるが、なにしろ囲炉裏は煙たいし、宿の主人な

どは慣れない客応対で、お愛想を作るのがとても大変そうだった。それから折からのスキ

ーブームに乗って民宿は新築されて、運営がおかみさんの手に移って安定してきた。



 このころの民宿は家はきれいだし、部屋も明るく清潔で、食事も驚くほど改善され、ま

あ、宿屋に泊まるのと遜色がなかった。スキーを終えて部屋の炬燵に入りながら、氷の着

いた野沢菜を皿に盛ってもらって、呑んだ燗酒が死ぬほど旨いと思ったりした。


 現在のスキー場がどんな按配なのかよく知らないが、宿泊はホテルに変わってしまっ

て、民宿のように地元の人との交流はもうないのだろう。しかしながらスキー場そのもの

はおいそれと変わらないだろうから、八方尾根の雄大な眺めはそのままだろう。


 スキーは恐ろしく寒いが、とても楽しいものだ。

 



2026/01/12

街天心寒月氷となりにけり

 

                                 (AIさん作成)


 寒月といえば「吾輩猫」の理学者しか頭に浮かばない。


 ほんとは寒の空に煌々と凍てつく月のことだろうが、こういう景観に余り馴染んでこなか

ったので、連想は「吾輩猫」になってしまう。困ったことである。なぜこういう景観になじみ

が無いかといえば、それは簡単、寒いから。なんと言っても寒いところからは逃げたい。


 でもまあ、やむを得ずにこういう光景に出くわしたことはあるような気がする。何かの都

合で帰りが遅くなって、首を縮めながら歩いてふと見上げたら、凍りつくような月が煌々と

照っていた、ということはあったような気がするが、いつのことだったかもうわからない。



 月といえば、随分といろいろな呼び名がある。居待月、立待月などと言うなんだかわか

らない呼称もあり、十六夜などと言うのもあって、とてもじゃないいが覚えられるものじゃ

ない。せいぜいが、三日月、上弦下弦の月ぐらいなところで、まあ間に合わせている。


 月一つにあんなに様々な呼び名があるのは、ちょっとやり過ぎではないのか。平安貴族

様はよっぽど暇を持て余し、やることがないから月について、ああだこうだ、と散々いじり

倒したのだろうと思う。それが今に何か影響があるかといえば、まあ何もない、と思う。



 ところで、またぞろ人類は月に行ってみるらしい。今度はどうも、月の上をジャンプしてそ

れで満足、という按排ではないらしい。月面での持続的な探査と、その視線の遥か先には

火星があり、その足掛かりを築くという面があるようだ。どんなことになるのやら。


 前回(約50年前になるそうだ)月の地面を飛び跳ねた際、日本の小説家が「月は行って

みるところじゃなく、眺めるものである」といったとか言わなかったとか。月へ行くのは、い

かにもアメリカだし、眺めるだけなのは、いかにも日本的だナア、とそのとき思った。


 いろいろあるが月はなにも変わっていない。




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