2026/03/03

蔵座敷きょう華やいで雛飾り

 

                                (AIによる)

 ひな祭りの記憶はほとんどない。


 女の姉弟がいなかったわけではないが、どういうわけか雛飾りというのを見た記憶がな

い。端午の節句のほうは、鯉幟が勇壮な姿で青空を泳ぐのを、ある種畏敬の念をもって

眺めていたし、鯉幟の口から中に入ったりしてよく遊んだから、親しく思い出す。


 たぶん偏見だが、ひな祭りは言ってみれば「おままごと」ではないか。人形を人に見立て

て飾ったり、菱餅やあられを食べたり、ご座の上のおままごとのその優美な奴、のような気

がする。鯉のぼりの方は、第一に春真っ盛りの大空が舞台、巨大な鯉が悠々と泳ぐ。



  雛祭りはまた桃の節句ともいう、のだが日本中を見回してもドッコにも桃など咲いてい

ない。これでは不都合ではないかと、一月遅らせてお祝いするテもあるそうだ。まあ、四月

ころになれば桃も咲いている。ことに甲府盆地の桃の春霞は夢のように美しい。


 新暦、旧暦いろいろ齟齬を生じる。どだい永いながい間、旧暦で行われてきた様々な行

事、お祭りを、セ~ノで一気に新暦に移しても、旨く行かないのではないか。やはり伝統的

な行事やら習慣は、そのままゆるゆると旧暦で行うのがいいのではないかと思う。



 近ごろ、神社の石段やら、駅のコンコースやらにその地域の雛飾りをかき集めて、豪快

に飾り立てる、ということが流行っている。もうみんな、昔のような豪壮な家には住んでい

ない。狭い部屋に何段もの雛を飾ることは、もう無理なのだ、表に出すほかない。


 これは鯉幟も事情は同じ、家の周りに畑でもなければ、鯉のぼりなど上げようがない。

自ずから広場に出すしかない。雛も鯉も、表に出して大量に飾り、そして地域みんなでお

祝いする。どちらも子供の健やかな成長を願う行事だから、そうする方が似つかわしい。


 子供たちよ、これからも雛と鯉でお祀りするから、元気でね。




2026/03/02

曙の如月の空へ旅立ちぬ

 




 人が旅に出るは虫穴をいずるが如し、なんて言葉はない。


 でも何となく、両方とも春になるとソワソワしてくるのは共通しているらしい。人生の旅立

ちというのも、おおむね春に多いことと思うが、そういう大ごとでなく、まあ温かくなったか

らちょっくらその辺まで旅行へ行ってくっか、と言って出かける旅立ちのことである。


 今頃の季節に旅行すると、まだ雪がみっしりと残って冬真っ盛り! というところもあれ

ば、いやいやもう春でんねん、なんぼでも花を咲かせまっせ! というところもあって、特に

日本海側から太平洋側に抜けるようなコースだったら、日本は広い! と実感する。



 名所旧跡、風光明媚なところもいいかもしれないけれど、どうも直ぐに見厭きてしまう、

という傾向がある。どんなに美しい景色でも、10分も佇んでいれば十分な気がするし、い

かに有難いお寺や神社でも、ひととおり巡っていしまえば、もういいやとなってしまう。


 それよりも、歴史の痕跡が残っていたり、人々の生活が垣間見られる場所を、ゆるゆる

と、ぶらぶらと歩き回るのが、自分には好ましい。あまり有名ではないけれど、昔の宿場街

が残っているところのその建物や、伝統的保存建物などでいまだ生活している様子など

を、時間をかけてゆっくり見歩くことができれば、言うことなしだと思う。



 旅行先は、気を遣わずにのんびり旅行できれば、それこそどこでもいいのだけれども、

なんでか今までは、日本海側の印象が強く残っている。どうも太平洋側は、街はビルと工

場ばかりで、騒々しくなんだかガチャガチャとしている、というイメージが強い。


 それに比べ、日本海側は人口も少ないだろうし、街よりも山や里が圧倒的に周りの視界

を占めているように思われ、静かだし、落ち着いているし、風景が自己主張しないし、なん

だか人も皆どっしりと腰を落ち着けて生活しているように見える。そういう全体の感じが

(あくまでも感じだけれど)、自分には好ましいのだと思う。


 


2026/02/28

山茱萸の綻びそうに古関あと

 



 山茱萸の丸い蕾が今にも咲きだしそうだ。


 もうすぐ、硬そうな殻が破れて、中から目が覚めるような黄色の、小さな星屑が爆発して

飛び散ったような、不思議な花を咲かせるのだろうと思う。花はごく小さく、一つの塊とな

っているうえに、蕊やらなにやらが飛び出していて、とても老眼でははっきりしない。


 似たような花に、マンサクという、なにやら木こりの与作みたいな名前の花もある。こっち

硬い蕾が開くと、中からごく小さい紙テープのような花びらが出てくる。これが花びらだ

とすると、およそ花びらだという概念が、もろくも崩れそうなってしまう。



 木に咲く花というのを、梅、桃、桜を唯一思い浮かべる単細胞だから、山茱萸もマンサク

どんも、自分から見れば一様に奇天烈な花に見える。そしてこれらの花は、そうそうどこに

でも植えてあるものじゃなく、めったに目にしないから見ればよけいにぎょっとする。


 しかし、これらがどちらも早春の花であり、どちらも黄色であることがなにやら不思議

だ。春もまだ寒いころに咲く花は、おおむね黄色なのは何か理由があるのだろうか。例え

ば、菜の花、連翹、蝋梅、ミツマタ、トサミズキ・・・気のせいか黄色い花が多いようだ。



 というふうに、植物がなにか目的に向かって形や色を変える、と考えるのは恐らく間違

いなのだろう。ホントのところは、な~~んも考えちゃいない、み~~んな、たまたまの偶

然の結果なのではなかろうか。この世はもしかして偶然に満ちている⁇


 たまたま偶然に色や形が変わってみたら、それが生き延びるのに案外都合がよかった、

などであれば、その形や色が残っていくのだろうと思う。恐らくそういう偶然の積み重ね

で生物は今日の有様なのだろう。当てにならない偶然、たまたま。それでいいのだ。






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