2026/03/17

雁帰る優しき伝え外ヶ浜

 



 津軽の外ヶ浜に「雁風呂」という伝承がある。


 雁は遥かに大海原を渡って日本に来るとき、小枝を咥えて羽休めにする。外ヶ浜にその

小枝を置いて日本各地に散らばってゆくが、春先に北へ帰る際、命を亡くした雁の小枝

は残り、それを集めて風呂を焚いて供養したという物語が伝えられてきた。


 雁の薄い命を思う哀しい伝承というべきか、小枝で風呂を焚いてその魂を供養する村

人の優しい気持ちを伝えたものというべきか、どちらにしても日本人の心情によく響く物

語りだろうと思う。日本人は元来とてもやさしい性格の民族なのかもしれない。



 しかしながら然りながら、よくよく考えてみれば、この伝承には少しおかしなところがあ

る。第一、なぜ外ヶ浜なのか。雁が渡ってくる地方は日本全国いろいろあると思う。日本

海側であればどこの浜だって渡って来るだろうと思う。


 第二に、水鳥である雁が、羽休めのために小枝なぞ必要とするのか⁉ 疲れたら波間に

ぷかりぷかり浮かんで休めばいいのではないか。それに雁が口にくわえて運べるような

軽い小枝で、羽休めとして立派に機能するのだろうか。眉に唾を着けたい。



 同じようなことを考えたかどうか、Wikipediaさんはこう言っている。「雁風呂」として

木片を落とす場所は、函館の一つ松付近という説と津軽の海岸という説が見受けられる。該当する地方に雁風呂の風習がいつ頃からあったのか、そもそもそういった風習が存在したのかという疑問の声もある[2]。2012年、青森県立図書館の調査により、上記の伝説は1974年のテレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではないと判明した[1]。また、伝説の基となった物語は四時堂其諺『滑稽雑談』(1713年(正徳3年)成立)巻16に収められているが、日本ではなく他国の島での話として収められた物語と判明した[1]


 「上記伝説は1974年のテレビCMで広まった」とあるが、これで思い出すことがある。た

しかこの当時だったと思うのだが。「一杯の掛け蕎麦」という話(貧乏な母娘に掛け蕎麦を

食べさせる蕎麦屋の話)が燎原の火の如く世間に広まった。なんだか話が似ているナア。




2026/03/16

宍道湖の朝静寂にしじみ船

 



 宍道湖のシジミ汁を食い逃してとても残念。


 出雲蕎麦はなんとしても、と思っていたのでありついたが、蜆の味噌汁の方はうっかり

失念してしまった。帰宅して気が付いて、大いに悔んだけれど、これはもうどうすることも

できない失態であり、もうこれから先に宍道湖を訪れることはないだろうと思うと悔しい。


 その時その時にしておかないと、「後で・・・」が利かないことは多いような気がする。子ど

もの時代が終われば子供らしいいたずらは出来ない、青年期にすべきことを中年期にや

ったら顰蹙をかうかも知れない。しかしながらこれは、その最中には案外気づかない。



 宍道湖の味噌汁は悔やまれるが、翌朝松江から出雲へ向かう際、島根半島の山すその

道を走った。そのとき、波静かな湖面にゆったり浮かんでいる蜆取りの小舟を見ていたの

に、ぼんやり見過ごし蜆汁に思いが及ばず、まるで阿呆みたいだがほんとのことだ。


 道中、島根半島の山すその素朴な田舎の光景にすっかり見とれてしまい、一畑電鉄の

寂しい線路が、湖の草の中に見え隠れするのを見つめたりした。湖が見えなくなっても山

すその静かな道は続き、その景色を見ながら、ひとまずは出雲大社に至った。



 大社からの帰りがけ、今度は宍道湖の南側を抜けるべく、出雲平野を横断した。縹緲と

畑が続いて、まっ平らな土地が延々と伸びている。出雲平野というものがこれほど広いと

は、驚きだった。斐伊川が造ったごく狭い砂州だろうと、見くびっていたのだ。


 今思い返せば、島根はなんだか懐かしい。湖も半島も平野も、太古の昔からその地勢

をあまり変えないで現代に繋がっているように感じる。おそらく無暗やたらな工場や高層

マンションなどがないせいだろうと思う。島根はいいところだ。




2026/03/15

春雷を遠くに聞きて旅支度

 



 旅は人々の憧れだと思う。

 

 観光、旅行いろいろあるけれど、「旅」と書いてみると、単なる体の移動ではなく、なにか

行った先の人との関わり、みたいなものが付着しているように思われる。だから単に行っ

た先の風景を見、旧跡を訪ね、だけじゃない、微かな期待とまた畏れとを感じる。


 乗り鉄の知人はこう言っていた。「ローカル線に乗る楽しみは、車窓風景もさることなが

ら、乗り合わせた婆さんや爺さんと話をすることだね。二言三言でもその土地の話を聞く

のは楽しい、例え方言がきつくて半分以上理解が及ばないとしてもだ」



 昔の人は予定も計画も立てず、まるで行き当たりばったりのようにして旅をしたらしい。

荷物だって巨大なゴロゴロを引っ張たりせず、小さな振り分け荷物程度で極身軽に出か

けた。芭蕉の旅もそのようであり、各地の知人が宿も飯も十分にお世話してくれたのだ。


 菅江真澄のことを書いた本を見たが、彼こそまさに放浪の旅の生涯を送った人であった

らしい。30歳ぐらいで故郷三河を離れ、以来みちのくや蝦夷地を経巡って、秋田あたりの

豪農に止宿して日を送り、遂に故郷へ帰らず旅の異郷の空で生涯を閉じた。



 昔はどうもこの手の放浪型の旅ができたらしい。生活に必要な一切合切を旅先の泊ま

り宿で見てくれるわけである。その代わりに農家を手伝え、とも特段要求されなかったよ

うだ。泊めてくれる農家にとっても、諸国を経巡った真澄の話が興味深かっただろう。


 これを現代に引き移してみるとどうなるのだろうか。日本各地を放浪する、という意味合

いでは車中泊などが似ているかもしれない。しかし車中泊は地元の人との交流が少ない

ようである。東南アジアで交流を深めている例がある。コンドミニアムなどと言う安宿に泊

まり、地元民と交流しながら旅を続ける人(高齢者)もいる。


 「旅」は案外「案ずるより産むが易し」なのだろうか。


 


訪問記録