2025/10/31

秋の宵仲よく家路犬と婆

 



 向こうのベンチにお婆さんが座っている。


 婆さんの隣に小さい犬が行儀よくちょこんと畏まっている。土手道が少し広くなった草原

にベンチが数個据えてあるが、他には誰もいない。秋の午後の陽ががっくりとうなだれ

て、今しも婆さんの後ろの丘陵に隠れようとしているが、薄い雲が広がり陽は見えない。


 婆さんが犬の頭を撫でたり何か話しかけたりしているようだが、ここまで声が届かない。

犬がなにか珍しいものを見るようにじっとこちらを見つめている。まるで同居している婆さ

ん以外の人間を始めたみたような、そんな顔で見つめている。



 「ポチや、他人様をそんなにじろじろ見んじゃないよ」「うん、分かった、けど、あれは誰

だ、婆さんに似てないね」「あれは爺さんというものじゃ、初めて見るのかえ」「ほう、そうな

の、なんだか汚らしい格好だねえ」「これ! そんなこと言うもんじゃないよ」


 と、そんなことを言っているのかどうか。婆さんが話しかけると犬は短く相槌を打ったよ

うにうなずいている。しばらくそんな風に二人は話し込んでいたが、風が少し冷たく感じら

れるようになって、そろそろと立ち上がって、土手道を並んで歩き始めた。


 

 そうして道々またなにやかやと話し込んでいるらしい。その姿はまるで親子のようであ

り、晩ご飯を何にしようか、おかずはなにがおいしいか、テレビはなにをみようか、そんな

話を取り留めもなく、しかし仲良く話し合っているように見受けられる。


 団地の一部屋に帰って、部屋を暖めて晩御飯を作り、顎を投げ出していた犬と一緒にテ

ーブルに座って、二人とも幸せそうな顔をして食べている。外に誰もいないから、二人だ

けの会話が続いている。それから風呂に入って、二人一緒の布団に寝るのだろう。




2025/10/30

先がけて花水木の葉紅葉す

 



 花水木の葉が赤く染まってきた。


 ほかの木々がまだ真緑だというのに、そんなことは知ったこちゃなく唯我独尊、堂々と紅

葉して憚らない。エライもんである。桜は薄茶色になって散ってゆくが、この葉っぱは鮮や

かな赤色を陽に照らして、どうだ! とばかり威張っているんである。


 よくよく見れば、案に相違して、この紅葉はなかなかにきれいである。なんでもそうだ

が、よくよく見る、というのが大事である。ぼわっとただ目に映しているだけでなく、じっく

りとよ~く見る、これが大切なんだが、いつもちらっと見て、それで見た気になっている。



 それではモノを見たことにならない、見るという言ことは、観察することである。観察すれ

ば、いろいろなものの本質が見えてくるのだ、と他人に教えられるのだが、これができそう

で案外できないから、いつもチラ見はいかん、観察だ、言い聞かせねばならない。


 そのように考えると、今までこの永いながい年月、なあ~んにも見てこなかったような気

がする。なんだってかんだって、ちょっと見ただけで、ハイ、次行こう、という気持ちになっ

てしまい、次から次、目の端に引っ掛けただけで過ごしてきてしまった。

 


 例えば、起きている以上何かしらを眼にして見ている。そのすべてをジイ~っと見る、つ

まり観察する、というわけにはいかない。そんなことをすれば、安物の脳みそにたちまちヒ

ビが入って、大爆発を起こしてしまう。そういうことはまずできない。


 となれば、一点集中、なにかを選んでじっくりと見る、観察する、というテしかないと思う

が、この選ぶ、というのがまた難しい。なにが重要で、なにが重要でないのか、それが分か

らない。分からなければ選びようがないから、すべてはチラ見となってしまう。


 じつに困ったもんである。




2025/10/29

安曇野の田畑を渡る秋の声

 






 安曇野の真ん中あたりを昔歩いたがよく分からなかった。


 そこで、ひとつ高みから見下ろしたら、何ほどかを感知できるかと思ってやってみたんで

ある。車でぐいらぐいら、丘の上まで登って、展望台からやおら眼下を見下ろしたら、広々

と展開している田畑が、黄、茶、緑のパッチワークとなって、とても美しい。


 あの黄色は刈入前の黄金の稲穂、茶色は刈り取ったばかりの田んぼ、緑は菜っ葉など

の畑であるらしい。ぐるりと見渡してみれば、野っぱらは松本の街から緩やかに下ってだ

んだんと幅が広がって、野の真ん中を貫いて蛇行しているのは、あれは梓川だろうか。



 惜しむらくは、アルプスの峰々が霧のような雲に閉ざされて見えなかったこと。もしこれ

が晴ればれと晴れあがって、巨魁の山々が群青の空にどっしりと連なっているのが見えた

ら、とも思ってみたが、そうそう何もかにもが都合よくいくものではないだろう。


 そう思って、念願だった安曇野を空から眺められたことに大いに満足した。大きな景観

は山の上から見ないと、その雄大さ壮麗さは感知できない。わが想像力が至って貧しい

からだろうけれど、なるべくなら高みから俯瞰して、この目で見て感知したい。



 それにしても「安曇」という名は、古代の海人(あま)族の名前だと聞いたことがあるが、

それがどうして日本アルプスのふもとの野っぱらの地名になっているのだろう。海なんぞ

どこを見渡してもありはしないじゃないか、と前々から不可解であった。


 そこでお手軽、ノー天気にネットに聞いてみた。長野県のwebサイトによれば下記の如く

であって、ああ、そうなのかと素直に納得した。更に記されていたのは、安曇族の移住は

国に広がっており、厚海、渥美、青海、安土、などなどがその地名なのだそうだ。


昔、玄海(げんかい)[九州の北に位置する海]の海人族の一つであった安曇(あづみ)氏が大和朝廷の王朝の伸張と共にその勢威を拡大し、徐々に東日本へ移り住むようになり、やがて信濃の国にも定着することとなった。

 

 いやはや、勉強になるなあ!



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