2026/01/12

街天心寒月氷となりにけり

 

                                 (AIさん作成)


 寒月といえば「吾輩猫」の理学者しか頭に浮かばない。


 ほんとは寒の空に煌々と凍てつく月のことだろうが、こういう景観に余り馴染んでこなか

ったので、連想は「吾輩猫」になってしまう。困ったことである。なぜこういう景観になじみ

が無いかといえば、それは簡単、寒いから。なんと言っても寒いところからは逃げたい。


 でもまあ、やむを得ずにこういう光景に出くわしたことはあるような気がする。何かの都

合で帰りが遅くなって、首を縮めながら歩いてふと見上げたら、凍りつくような月が煌々と

照っていた、ということはあったような気がするが、いつのことだったかもうわからない。



 月といえば、随分といろいろな呼び名がある。居待月、立待月などと言うなんだかわか

らない呼称もあり、十六夜などと言うのもあって、とてもじゃないいが覚えられるものじゃ

ない。せいぜいが、三日月、上弦下弦の月ぐらいなところで、まあ間に合わせている。


 月一つにあんなに様々な呼び名があるのは、ちょっとやり過ぎではないのか。平安貴族

様はよっぽど暇を持て余し、やることがないから月について、ああだこうだ、と散々いじり

倒したのだろうと思う。それが今に何か影響があるかといえば、まあ何もない、と思う。



 ところで、またぞろ人類は月に行ってみるらしい。今度はどうも、月の上をジャンプしてそ

れで満足、という按排ではないらしい。月面での持続的な探査と、その視線の遥か先には

火星があり、その足掛かりを築くという面があるようだ。どんなことになるのやら。


 前回(約50年前になるそうだ)月の地面を飛び跳ねた際、日本の小説家が「月は行って

みるところじゃなく、眺めるものである」といったとか言わなかったとか。月へ行くのは、い

かにもアメリカだし、眺めるだけなのは、いかにも日本的だナア、とそのとき思った。


 いろいろあるが月はなにも変わっていない。




2026/01/11

夜寒し氷下魚炙って独り酒

 



 遠い雪国の寒さを想ってみる。


 雪がしんしんと積もるだけではない、時としてひょう~~っと風が巻いて吹雪になる。そ

ういう夜はいかんともし難く、ただ寂寥感に包まれて、背を丸めて閉じこもるしかテがな

い。そんなときに、干した氷下魚の硬く凍ったようなやつを炭火でゆっくりと炙る。


 炙った氷下魚の少し柔らかくなったのを、手で毟って口に入れると、上品で淡白な氷の

味がする。思いやる北国の凍てついた湖は、どこまでも寒く冷たく想像するだけで身震い

が出そうだ。燗酒が体中を経巡っていく途中、目のあたりでポロリとこぼれた。



 氷点下10度くらいならばひょっとして体験したかもしれない、が、マイナス30数度となる

とこれはもう、想像の埒外に出てしまう。それも、ほんの一時ではなく、日常茶飯事ともな

ればどう想像していいかわからない。想像だけなら猿でもできるのにナア。


 「どたん場検索」によれば、最低気温は南極のソ連基地の-89.2℃だそうだ。人間が日

常生活している場所では、オイミャンコ((ロシア)-67.7℃といっている。つくづくと、人

間という動物はなんとまあ、とんでもないところに住み着いていることかと思う。



 個人的な体験の示すところでは、一番ここちよく過ごせるのはどうも18℃~23℃の間

くらいであるようだ。それ以上となれば、次々に着ているものを脱ぎ去っていかねばなら

ない。またそれ以下になると、今度は次々へと服を重ねなくてはならない。


 服を着たり脱いだりしても、もはやどうにもならん、という閾値を越えれば当然あとは機

械の出番となる。夏は扇風機(まだ使っているのだ)、そしてクーラー。冬の今の時期は、

炬燵(まだ使っているのだ)、ストーブ、時としてエアコン。これらに助けられている。


 人間は気温に対して強いのか脆弱なのか分からなくなった!




2026/01/09

どんど焼き用意ととのえ子らを待つ

 



 多摩川の支流の岸辺で見つけた。


 奇妙なとんがり帽子でなんだかわからない。近寄ってみたら、下の方に正月飾りみたい

なものがいろいろぶら下がっている。ひょっとしてもしかすると、これはどんど焼きではあ

るまいか、と思った。まさか、東京でもどんど焼きを行うとはユメ思っていなかったのだ。


 これは雪深い田舎の正月行事であって、しかもとっくに廃れたのだろうと思い込んでい

たので、一見なんだかわからなかったが、どんど焼きとくれば懐かしい。わが故郷では雪

一面の田んぼの中に、藁束を立てかけてやっぱり円錐形に作ってあった。



 学校の帰りにこれを見つけると、あのどんど焼きに火がつけられる夜になるのを待ちどう

しく思った。短い冬の日が早々と暮れるころ、餅やら団子やらをポケットいっぱいに詰込

んで寒さの中、どんど焼きの場所へ駆けつける。おお、いま火がつけられたばかりだ。


 めらめら燃え上がる火を眺める。なにやら悪ガキどもも寡黙になってただ火を見つめ

る。しばらく放心状態でいて、ガバッと正気に戻り、ポケットの餅を取り出し、棒に刺して

日に炙る。ところがどっこい、表面だけが煙に焦げて中は生ん坊、食えたものじゃない。



 大都会のど真ん中では、最早こんな行事は消え去っただろうけれど、大都会の端っこの

田舎にはまだ残っていたことが、とても嬉しい。15日の小正月の夕べには、やっぱりあの

遠い日と同じように、子供当たちが嬉々として集まって来るんだろうか、と思いを馳せる。


 人々の暮らしの中の伝統行事や慣習は、おおむね500年で入れ替えられる、という話

を聞いたことがある。鎌倉、室町、江戸、そこらあたりの伝統は今無くなりつつあるのかも

しれない。茶道、華道、、、さまざまな行事、みな消えてゆく運命にあるのだろうか⁉


 そういえば、お墓さえ今は危うい。




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