2026/02/11

あえかにも暫らく咲けよクロッカス

 



 早春の花はどれも儚げだ。


 まだ寒い中を大変なエネルギーを使って咲くからだろうか、その花はいつの間にかすっ

と消えて、あとに何も残っていないように思われる。例えば、セツブンソウ、カタクリ、フクジ

ュソウ・・・「や、咲いたな」、と思ううちにもう姿が見えない。あとに葉っぱも残らない。


 この手の早春の花を、スプリング・エフェメラル(Spring ephemeral)と言うそうだ。

やや! またしても英語らしき言葉、分からないから、いちいちネットさんに聞くしかない。

(ここは日本だぞう! いい加減にしてくれ! )、なんて言うのは外に誰もいないが・・・



 これを日本語に訳すと「春の儚い命」となるだそうだが、日本語にすれば「春の無常」でい

いような気もする。なにしろ日本では「儚い」とか「無常」とかは得意だ。春の命が儚いかど

うか、春だろうが秋だろうが、命は昔から儚いものであって、春に限ったことではない。


 Spring ephemeral は英語らしいから、イギリスではことのほか「春の儚い命」なる

現象が印象深いのだろうか。日本人が秋の枯葉が散るのを見て、深々と世の無常を思

ように、イギリス人はクロッカスなどを見て、世の無常を思い知るのだろうか。



 それはさておき、早春のこういう花はすぐ消えてしまうから、それを見るこっちは春にな

ると、なんとなく気ぜわしいような、忙しいような、そういう気持ちがするのだろうか。今年

は一つ、こういう気ぜわしい気持ちを抑えて、泰然自若、何ごともゆったりと構えたい。 


 暑かろうが寒かろうが、花が咲こうが散ろうが、雨が降ろうが晴れようが、目の端っこで

ちらりとそれを見るだけにして、嬉しくもなく、寂しくもなく、楽しいような、そうでもないよ

うな、そういう顔をして時間を流したいと思う。ひょっとしてこれができれば、悟りだナ。




2026/02/10

山陰にみどり目を射す蕗の薹




 蕗の薹に異常な愛着を持っている。


 なんと言うこともない、どこにでも萌え出してくる、単なる草の芽なのだが、自分にはそ

のような、単なる草の芽であるとは、どうしても思うことができない。言ってみれば、これを

見たら春という抽象が、一気呵成にこの身に押し寄せてくるように感じる。


 雪積る山里で育った。野山を厚く覆っていた雪が、3月ともなればさすがに溶けてきて、

田畑の畔や山道の、懐かしき土がむき出しになる。そうすると、間に髪を入れず、鮮やか

な緑の葉っぱに包まれた、ころんとしたこの蕗の薹が、あっちにもこっちにも芽を出す。



 それは単に草の芽が出たのではない。閉じ込められていた長い冬の終わり、春になった

解放感、これから展開するであろう緑と花の季節への大いなる期待・・・そういった様々な

感情が蕗の薹を見た途端に、胸に湧き上がってきてはちきれそうになるのだった。


 こういう変てこりんな感情を抱くのは、ひょっとして自分ばかりなのかどうか知らないが、

ともかく嬉しくなって、やたらに興奮する。その勢いが余って、手を泥だらけにして、この蕗

の薹を毟り取り、嬉々として持ち帰って、そそくさと天婦羅にして頬ばるのだった。



 今でも野っぱらの畑の畔に、これが芽を出しているのを見れば、心臓が早くなりハカハ

カし出し、手を伸ばして摘み取りたい衝動にかられる。しかしそれは注意しなければなら

ない。もしかすると、その芽は畑の持主が大事に育てているのかもしれないのだ。


 もう一つ、摘み取りたい衝動を抑えるものがある。以前、野っぱらのもの、例えば蕗の

薹、野蒜、ツクシなどを摘んで、嬉々として帰ったのだが、敵は「こんな面倒なモノを! 

(怒)」と言って料ってくれなかった。以来、野っぱらのものを持ち帰ることはない。


 「やはり野に置け蕗の薹」なのだ。




2026/02/09

かまくらや散らつく雪にほの明かり

  

                                (AIによる)



 かまくらの横手に行ったことがあるが、雪の季節ではない。


 市内に入って最初に観光会館みたいな建物に行き、そこで巨大なかまくらの写真を見

た。雪がちらちらする中に、大きなかまくらが浮かび出て、出入り口からほのかな明かりが

漏れている、という幻想的な写真であった。その写真に強く引き付けられた。


 しかしこの時は雪なぞ一滴もない季節で、まあ早い話、そそくさと諦めたが、その後おり

につけ、横手と言えばかまくら、幻想と言えば横手のかまくら、が脳裏に浮かんできた。が

、例によって再び現地を訪れる機会もなく、一度見てみたいけれど、叶わぬこととなった。



 そうなってくると、このかまくらの風景は脳の薄暗がりの中で勝手に増殖し始め、まるで

夢の中で見る光景のように、幻想的な情景となった。かろうじて見える、雪明りに浮かぶ

かまくらに子ど達がこもり、訪れた大人たちに甘酒を饗応して、笑いさざめく。


 あるいは子供同士が寄り集まり、温かい炭火が燃えるかまくらの中で、トランプやカルタ

に興じる、絶えず笑い声が響き、食べ物もおいしい。外はしんしんと降る雪に包まれて、静

かで安全で、なんの心配もない…そんな情景が浮かんでくる。



 ところでこういう情景は、当の子供たちの記憶にどのように残っていくのだろうか。どう

見ても、イヤな記憶として残る、ということはないだろうと思う。もしかすると、温かくてとて

も幸せな、そういう感情を伴う記憶となって残るのだろうと思いたい。


 「そんなに見たけりゃ、行けばいいじゃないか」・・・これはもう、思うだに大変そうである。

何か月も前から、下手すると1年も前から、旅館、交通、入場料などを予約する必要があ

るだろう。今年のように雪に振り込められたら大ごとだ。だから、また断念するしかない。


 秋田はかまくらが過ぎれば早春になるのだろうか。




訪問記録