栗の木はあたりの緑に溶け込んでいる。
白い花を見て初めて、ああ栗だ、と気付く。今は大粒の、小石ほどもある実が多
いけれど、山の中に自生する栗は、ほんの親指の爪ほどの大きさだ。しかしこれが
案外旨い。天津甘栗を想い出せばそれが分かる。
縄文人とどんぐり、というのはよく結び付けられるけれど、ドングリはそう簡単
には食うことが出来ないという。水に晒したり、あくを取ったり、なにやらかにや
ら、口にするまでエラク手間ひまがかかるらしい。
そこへいくと、 栗はいとも簡単、そのまま生でも食えるし、日に干したらかな
りの長期保存もできる。ぐるっと見回してみて、これほど有用な木の実はないよう
に思う。だから三内丸山では栗を栽培したのだろう。
栗の実はしかし、木の実としてみれば恐ろしいほど地味である。桃やブドウが華
麗なる変身を遂げたのに、栗は縄文太古の昔からほとんど変わっていない。ずう~
っと、地味一点張りで過ごしてきた。可哀そうである。
ところが有用性という面から見れば、なかなか他の木の実にだって負けてはいな
い。まず、米とタックを組んで、栗ご飯、栗おこわ、これは今でも人気がある。お
菓子方面に目を向ければ、モンブラン、マロングラッセ、天津甘栗と、どっこい、
踏ん張っているのだ。
栗をもう少し大事にしよう。
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