2025/11/29

木枯らしや月の明かりも吹寄せる




 いよいよ木枯らしの季節がくる。


 とは言いながらさりながら、近ごろトンと木枯らしに出会わないような気がする。びょうと

吹いて、外套もなにもひっぺ返す様な生な木枯らしがなくなったように思う。が、しかしこ

れは隠居になって、ほとんど戸外をさ迷わなくなったせいであるかもしれない。


 温暖化で木枯らし勢力がガクンと減ったのか、表に出ない年寄りだから出会いがないの

か、それはともあれ、上州の空っ風がそのままこっちまで駆けつけたような、生なましくて

勢いがある木枯らしが、なんだか懐かしい様に思える。



 木枯らしの季節になれば、屋台のおでんが旨くなる。歩く人もない歩道の片隅に、薄明

りが灯って湯気が白い。苦いようなイガイガするような燗酒を喉に流し込んで、はんぺん

やら大根やらを、なぜかそそくさと突く。なんとも貧乏くさくてとてもいい。


 どこかで一杯引っ掛けて、最寄りの駅に帰り着いたとき、びょうと木枯らしが吹いて、ラ

ーメン屋台が濛々と湯気を上げている。こうなるとやはり、この屋台をそのまま見過ごして

は帰れない。ちょっと立ち寄って、食い過ぎだなあ、と反省しつつラーメンをすする。



 ところで、風の又三郎の運動場で吹いた風は、あれはやはり木枯らしだったのだろうか。

この物語をきちんと読んだ記憶がないけれど、風の音だけは耳に残っている。

っどど どどうど どどうど どどう     青いくるみも吹きとばせ

すっぱいかりんも吹きとばせ  どっどど どどうど どどうど どどう


 この擬音と、それからくるみやかりんの葉っぱを吹き飛ばすのだから、どうも木枯らしに

間違いないようだ。木枯らしが運動場に吹き抜ける擬音として、これ以上印象的な表現は

ないと思われ、そのためか長く印象に残っている。賢治さんは偉かったね。




2025/11/28

ただ歩く小春の浜を何処までも



 

 東海のどこかの浜辺だった。


 この季節とは思えないほどの温かい小春日和で、あまりにも気持ちがいいから、ざくざ

くと小石の浜をあてどなく歩いた。まどろむような静かな波が岸辺に寄せている。足元は

富士の溶岩が波で砕かれてできたかに見える、砂ではなく黒っぽい小石である。


 空はどこまでも晴れているし、海の水は澄んで遥かな沖まで青い。遠くの岬の山影がべ

ったりと青く染まって海に溶け込んでいる。なぜだかわからないが、たまたま富士の秀麗

な裾野は霞んでいて見えなかった。けれどこの浜全体が春のように温かい。



 こんなにアッケラカンとして明るい冬の日もあるのだなあ、と感心してしまった。どこを見

ても暗く陰鬱な影は、その染みほども見当たらない。どこもみな粒のような陽光が煌め

き、悠々閑々、落ち着き払っている。こんなことがあっていいものなんだろうか。


 かと思えば、毎日吹雪に吹きまくられる冬もある。空は暗い暑い雲にがっしりと蓋をさ

れ、毎日まいにち雪や雨が降る。もう要らない、と言っても聞いてはくれない。暗くて寒く

て、こころ浮き立つようなことは、まったくどこにも転がっていない。



 日本列島は実にさまざま変化に飛び過ぎている。けれど住んでいるところが、まあまあ

平均的なところだろう、と自動的に思いながら生活している。だからこういう東海の浜辺

のようなところへ、たまたま行くとその違いが深く認識されるのだろう。


 しかしながら、日本国中どこ構わず住む、というわけにはいかないし、またどこ構わず旅

をする、などという事も出来ない。狭い一か所に閉じ込められている身とあってみれば、

出来るのはせいぜい妄想を膨らませるぐらいのところ。仕方ないよなあ。




2025/11/27

群れ離れ孤独な鷹の渡りけり

 

 



 またしてもAI先生に画像を作ってもらった。


 最近ズルしてこればっかりに頼っているような気がする。だけれど、出来上がった画像は

なんだか決まりきったような、稚拙な絵であるような気がしないでもない。もっとも、使う

アプリが「無料」だとか「お試し」などばかりだから、AI先生もしっかり手抜するのだろう。


 それでAI先生作成の絵は、ちょっとニュアンスが違うなあ! としばしば思うけれど、なに

しろこっちは一滴も絵が描けない、わがままを言っても通らない。それが嫌ならAIの画像

生成をしっかり勉強して、思うように作成してもらうことだが、それは面倒くさい。



 
 それにしても鷹が渡りをするとは知らなかった。冬場餌が少なくなると暖かい地方へ移

って行くらしい。その時、エネルギー節約のため、上昇気流を捕まえて、大方は群れになっ

てその上昇気流を転々と渡りながら、遠くまで飛んでいくものらしい。


 しかし鷹とか鷲とか、猛禽類は普段群れを成さないように見える。一羽づつ孤独に暮ら

しているイメージが強い。それがどうして渡りの時だけ群れをつくるのだろうか? 「わしゃ

群れるの嫌じゃけん一人で行くんじゃ」という奴もいるだろうと思って句にしてみた。




 更に日ごろ鷹や鷲のような鳥を見かけることはほとんどない。昔、三浦半島へ行った時

に、ピ~ヒョロロ~とトンビが上空を舞っていたのを見た程度だ。当地方でよく見かかる

のは、ヒヨドリ、ムクドリの大群、カラス、スズメ、ときどきメジロ・・・ぐらいかなあ。


 鳥もよく知らんし、植物も昆虫もほとんど何も知らない。威張ることじゃないけれど、こ

れが大いなるコンプレックスである。シテ―ボウイじゃない田舎育ちがこういう事でどうす

る! と思うけれど、こうなっちまったのを今更どうにもできん。アキラメテいる。





2025/11/26

山茶花や散って華やぐ寺の門



 

 隙間に植えてある山茶花がようやく咲きだした。


 「ようやく」というのは、確か例年11月の声をきくと、そそくさと咲きだしていたような気が

するから、山茶花とは11月の花だとばかり思っていた。12月の声を聞かないと咲かないと

なれば、温暖化の故か否かそれは知らないけれど、認識を改める必要がありそうだ。


 山茶花の画像を探しまくったが、遂に見当たらないので、AIさんに作ってもらったらこん

な絵になった。まったくの架空の産物だけれど、なんとなくイメージに合っているから、これ

でいいことにした。山茶花は散り敷いて地面を彩る色合いが華やかだと思う。



 黒っぽく見えるほどの濃緑色の葉っぱから、薄いピンクの花が楚々として湧き出すよう

に咲いているのを見ると、きれいな花だナと思う。これがぽつりぽつり咲いていてはダメ

でわらわらと木や葉っぱが見えないほど咲いているのがいいようだ。


 椿と違って、花びら一枚一枚が、はらはらと無風の冬日に散り敷くさまもなかなかいい。

散り敷いた地面がぱっと華やかになって、冬の花の少ない時期に、こころ弾む思いがす

る。どちらか言えば、木で咲いているよりも散った花びらが美しい。



 11月は月始めからインフルエンザと肺炎で、およそ半月も寝て過ごすこととなった、言わ

ばクソッタレな月であった。それでどうも、たちまち体がサボり癖を発揮しているらしい。昨

日用事があって横浜の戸塚に出張ったが、駅までの道、長い乗り換え道、息が切れた。


 この分だとたちまち足弱で歩けなくなる恐怖が、背中のあたりから滲み出して、これはい

かん、是が非でも、なんでもかんでも、散歩を復活しなくてはいかん! と思い知った。寒

くなる時期で、かつ面倒くさいから、出来るだろうかどうだろうか⁇


 ま、のんびりゆったり始めようか。




2025/11/24

落葉踏む音に来し方想い出し

 



 落葉の道はどこまでもカサコソ音がついてくる。


 どこまで行ってもカサコソだ。乾いた音なので、自分で自分の足音を聞いていて嫌な感

じはしないが、自然とこころの内側をのぞき込むことになる。これはまあ、楽しいかと言わ

れれば、あんまり楽しくはない。ろくでもない来し方であったが、今更仕方がない。


 今更仕方がないから、ろくでもない方はうっちゃらかして、なるべく楽しいようなことを思

い出そうとする。こっちの方も、まんざら無くはないので、なけなしの思い出を引っ張りだ

してみることにしている。そうするとだんだんこころは楽しくなってくる。


 そんな数少ない楽しい思い出は、やはりそこいらじゅうを歩き回ったそれぞれの記憶だ

ろうか。外国を一滴も知らないから極めて貧相な、貧乏くさい記憶しかないけれど、それ

でも今思うと貧相でも自分にとっては、貴重な記憶だったなあと思う。



 栃木県を歩いているうちに、下野古代国府跡という場所に偶然行き当たり、へえ! と

言って興味の赴くまま歩き回っていたら、すっかり時間を過ごしてしまい、さて日が暮れて

最寄り駅まで12㎞、真っ暗な街道道をとぼとぼ泣きながら歩いた思い出。


 阿武隈川の土手を歩いていて、知らぬ間に熱中症もどきの状態なってしまい、民家の庭

先の自販機を見つけて水を補給し、木陰で数時間、死んだようにぐったりとなってようや

く回復した、なんともばかばかしい思い出。(よく死ななかったよなあ)


 仙台駅の一つ手前までたどり着きながら、足がストライキを起こしていう事を聞かず、な

だめても透かしても、じっくり休んでもどうしても動こうとせず、泣きの涙で諦め、仙台駅

を眼の前にしながら無念の撤退、今でも悔しく思い出される。



 貧乏性だから、もうこれからも一歩たりとも外国に足を踏み出すことはないだろうが、そ

こいらの近場をふらふらしたい気持ちは強い。そうして気分だけは放浪している気になっ

ていたい。客観的はタダのしょうもない散歩でも、主観的には放浪だと言いくるめたい。 


 そうして一人勝手に自己満足し、人がなんと言おうと、かってに自己満足した方がカチ

だとうそぶいていようと思う。だあ~れも褒めてくれないのだから、せめて自分だけでも

自分を肯定しようと思う。そうしないと自分が立っていられない気がする。




2025/11/22

銀杏散り拾って帰る母と娘(こ)と

 





 散ったばかりのイチョウはまだ瑞々しい。


 きらきらと陽を照り返して、その美しさにだれでもどうしても一二枚拾ってみたくなる。散

ってもイチョウはエライ! まして木に着いて黄金に染まったのが、わずかの風にそよいで

青空をバックに煌めくさまは例えようもない。ことに神宮外苑が見事だ。


 しかし、東京はイチョウがことに多いように思う。東京大学の構内はたまたま立ち寄った

のだったが、その黄金色に囲まれた素晴らしい景観に驚いた記憶が残っている。外にも

見事な銀杏並木など数あることだろうと思うが、身近では甲州街道八王子の並木道、昭

和記念公園のイチョウのトンネルなどを思い浮かべることができる。



 お寺やお宮の境内には、ときとして堂々たるイチョウの古木が聳え立っていることがあ

る。さすがに前に立てば、その威風堂々たる姿に圧倒され恐れ入ることが多い。まだ葉っ

ぱが青い時分には、その大きな腕で涼し気な影を作って休ませてくれる。


 ひとたびこれが色づくやいなや、真っ青の空に砂金をちりばめたように黄色い葉っぱが

煌めき、ときあって、はらはらと散り敷けば、辺り一面黄金絨毯と変わって、そのあんまり

にも無辺際な散敷ように、これまた圧倒され恐れ入ってしまう。



 しかしイチョウはなかなか複雑な木であるらしい。オスとメスが分かれているという。実

をむすぶのもなにやら複雑な工程を経ているらしいし、裸子植物だともいうし、安い頭で

は何がどうしたのかよく分からない。それでもって化石と言われるほどに古くからの生き

残りでもあるらしい。


 しかしそんな面倒くさいことは分からないでも、イチョウは見た目が断然いいい。境内の

一人孤高の姿もいいし、数を頼んで並木の圧倒的な量感もまたいい。春の新緑の柔らか

な葉っぱもいいし、秋の夕日の丘に金色が散るのは当然いい。




2025/11/21

膝抱いてぽつねんと独り秋惜しむ





 タイトルのような句を思いついたが、はて・・・


 これに見合うような写真はどこにもない。あろうはずがない。写真はきれいなものを写す

のであって、薄汚いゴミみたいなものはふつう写さない。一句一ブログはいいけれど、し

ばしばこのことで悩んでしまう。つまり句に応じた適切な画像がないことだ。


 ところがぎっちょん! 近ごろ勝手にマイクロソフトに入って来て居座った、なにやらAI

が絵を作成してくれるソフトがある。長い間知らん顔をしていたが、ここでそれを使ってみ

た。そしたら最初は少女の画像ができ、これではあんまりにも看板に偽り、なので修正。



 これはAIに、絵のイメージとして、俳句そのものを書き込んだだけで出来上がった絵だ

が、「ぽつねん」とか「惜しむ」とかの言葉を理解して、絵を作成しているとは思えない。た

だ「膝を抱く」「独り」「秋」などの言葉通りの絵を描いてみた、ということだろう。


 こちらのイメージ通りにはなかなかいかないが、句に書いてある言葉がおおむね反映さ

れた絵が出来上がった。この絵はアニメっぽくしてみたが、写実的にとか、シュールレアリ

スム的にとか、ともかくいろいと変換できるボタンもあり、素人の遊びにもってこいだ。



 この短からぬ人生を、一ったれの絵も描けなくて過ごしてきた。その才能がまるっきり欠

落していて(・・・そういえば音楽だって一粒もできない、絵と同様だ)、芸術関係とは全く

無縁な寂しい来し方を歩んできて、そういうものだと諦めていたが、ひょっとするとこれで

絵のようなものが描けるかもしれない、こりゃ大ごとになった。


 絵の中の老人は憂い顔をしているが、老人は楽しくたっておおむね憂い顔をするもの

だ。だからこの老人が哀しいわけでもないかもしれない。秋から冬への季節の移り目を惜

しみつつ、なにごとかを懐かしく思い出しているのかもしれない。


 今後はときどきこの手を遣おうかと思う。




2025/11/20

山はもみじコーヒーの香りベンチから




 御岳神社の裏のあたりに小さな谷間が開いている。


 ロックガーデンなどと、こじゃれた呼び名がつけられているようだが、行ってみたら岩や

石ころがごろごろしていて、緩やかなU字の渓が展開していた。ちょうど秋が深まる時期だ

ったので、周りの雑木がモミジの赤はないけれど、黄や茶に色づいて明るい。


 素朴なベンチとテーブルが設えてあり、若者たちがコーヒーのいい香りを振りまいてい

る。森の中のカフェがそこここに開店営業中である。爺さんの年代はキャンプや登山は日

常から離れることだと思い込んでいるが、今の若者は日常を無理やりでも持ち込んでくる

らしい。



 夏に茂り放題だった雑木の葉の半分ほどがすでに散って、隙間があいて日が差し込み、

葉っぱの緑が黄や茶に変わって、樹幹は大変明るい。明るい谷間に明るい人たちが集ま

って来て、笑いさざめき、まるでビルの中の明るいカフェの如くである。


 谷間の場所によっては、わずかなモミジを加えて、赤、黄色、茶色、そして緑、それぞれ

の枝が横ざまに広がって、この4色の霞が棚引いているように見える。別段モミジの名所

でなくても、その時期にジャストであれば、どこでもそれなりにモミジは美しいと知った。




 この辺りがこんな按配になってくると、もう冬は近い。あとは雑木の葉は散る一方であり

たちまち裸の枝が空に突き刺さり、山肌はくすんだ灰色に塗り込められる。そうして1か

月、2か月、忍の一字で待っていると、空が明るくなって裸の木の枝に霞のようなものが

纏いつく。


 こうしてまた、季節の繰り返しが始まるのだが、この繰り返しは何べん経験しても、もう

飽きたから要らない! という事がない。何回だろうと何べんだろうとOKである。何べん

繰り返そうと、その度に新鮮であり、その度に愛おしい。だから飽きるというこはない。


 神の定めに反してそう思う。




2025/11/19

柿落葉現代アートの一、二枚





 柿の葉は散ってなお華麗である。

 目の覚めるような色合いを保ち、様々な不思議な形を織りなし、現代アートさながらに

見えてくる。この画像はたまたま濃い青地の中に赤い点々が、窯変天目のような模様を描

き出していて、ついつい立ち止まってじっくりと眺めることとなってしまう。


 柿の葉っぱは、萌えだした新緑のころは、表面が油を塗ったようにつやつやと陽を反射

してとても美しいし、秋ともなればこのように変身して、絵画のような趣を呈している。ひょ

っとすると柿の葉は、落葉樹の中でもモノすんごい実力者なのではあるまいか。



 秋に柿木を見れば、どうしても実の方に視線が奪われる。あの実は甘いのか渋いのか、

旨いのかまずいのか、そっちの方が大事であって、柿の葉っぱをしげしげと眺める人はそ

う多くない。しかし実力はある、だから柿の葉っぱは落葉紅葉樹の影なる実力者なのだ。


 意外なことに、すし飯を包んでその実力をいかんなく発揮するものもいる。柿の葉寿司

というのは、小さく包んだ見た目も旨そうだし、なんと言っても可愛らしい。これぞ実力で

あって、悔しかったら楓やモミジ派の葉っぱで、すし飯を包んでみたらどうか。



 葉っぱが全部散ってしまって、棒切れのような枝に柿の赤い実だけが残っている、とい

う眺めは、のどか、牧歌的、閑寂を全部ひっくるめて一語にしたようなもので、人の郷愁を

イタク惹きつけて止まない。ここに夕焼けとカラスを配置すれば一層懐かしい。


 この点でも並々ならぬ実力者であるのだが、惜しむらくは人がその実力を正当に評価し

ない傾向がある。「なぁんだ、柿かあ! 」で澄ましてしまっている。これでは柿がかわいそ

うである。その実も花も木も地味々々ではあるが、実力はやはり正当に評価したい。

 やたら柿の依怙贔屓だが、好きなんだこの実が・・・




2025/11/18

小春日にインフルエンザの床を上げ

 



 いやはや、この半月がすっぽりとどこかへ消えてしまった。


 ように感じたインフルエンザの日々だった。まさか自分が罹患する、などと考えもしなか

った。なにしろ丈夫一式の体だし、流行り病にそそのかされほど神経がこまやかではな

いし、あくまで原始的にあくまで粗雑にできているはずなのだから、と思っていた。


 高熱は出なかったけれど、呼吸がやたらに苦しい。寝ていると眼前にスマホ画面が現

れ、真ん中が丸く白っぽい棒杭のようなものが浮かんできて、それはどうや喉と気管支で

あって、棒杭のようななものをもっと広げて息の通をよくしろと訴えてくるらしかった。



 それが一例で、スマホ画面は次から次、現れては何事かを訴え、命令し、指示する。どう

も本人はスマホ画面をちょこっと何かすると、この苦しみから逃れられるのだと思い込ん

でいあるらしい。現実は虚空の中で目を瞑っているだけで、スマホ画面など見ちゃあいな

いのだが、それがわらわらと立ち現れ、スマホ画面の夢想、幻想が止まらない。


 ここの於いて幻想と現実が逆転した。苦しさの中で脳に浮かんだスマホ画面は、我が幻

想のなせる業、だが当人にっとっちゃあ、まったくの現実である。画面をちょこっとなんとす

れば苦しさから逃れられる、と思い込んで揺るがないのだから・・・



 スマホ画面の方が幻想なのだ、と言い聞かせてやっとこの幻想が減ってきた。しかし息

苦しさはちっとも減らない。別な医者に行ったら「肺炎よ! 」と言われ、なんだか段々と

大ごとになってゆきそうな気がする。またまた馬に食わせるほどの薬をもらった。そうして

ここへきて、ようやく回復の兆し、ああ! どこかへぶん投げてしまった半月の日々。


 でもまあ、永久にぶん投げっぱなしにならずによかったかも。



2025/11/03

托鉢の僧の列ゆく初しぐれ

 



 いつかなにかで見た映像だけど・・・


 寺の門が重々しく開き、墨染めの姿に網代傘の僧がぞろぞろ出てきた。雨が降ってい

る。骨を凍らせるような冷たい雨、しぐれ。そんなものを一向に気に掛けるふうもなく、僧

たちはわらじの足を冷たい雨の中に運んでゆく。寒くてイヤにならないんだろうか。


 そうして山を下りて街に入り、びしゃびしゃしぐれる中、一軒一軒の戸口に佇んでなにや

ら読経をしながらひたすら待つ。やがてオバさんが現れてなにやらを僧が持つ袋に入れ

てくれる。僧は軽く一礼して、なにごともなかったかのような顔で次へ廻ってゆく。



 北陸山陰を旅行したとき、おおむね晴れの日が続いたが、ときおり晴れていると思った

のにいきなり霧のような雨になってしまう、ということがよくあった。これはしぐれではなく、

秋雨の類だったかもしれないが、ほんとに北国日和定めなきだなあ、と思った。


 砺波平野の散居集落を眺めようと、丘に登ったとたんにこの霧のような雨が降り、せっ

かく楽しみにしていた眺めが、まるっきり霧雨にけぶってしまいワヤであったし、足立美術

館の風景にイタク感激して駐車場に戻ってみたら、同じように霧雨が降っていた。



 かの地方では、いまごろ秋雨ではなく、本格的なしぐれ空になってしまったのではなかろ

うかと思う。これはもう秋雨のようなヤワなものじゃなくて、雪の前兆の、しっかりした一人

前の氷雨、骨の髄まで沁みとおって凍らせる、ほんとにイヤな奴なんだろう。


 そして間もなく、空に分厚い黒雲が被さり、ちらほらと冷たく白いものが落ちてきて、何

もかもを鬱陶しく閉じ込める毎日が、うんざり、がっかりするほど続くのではないのか。ち

ょっとだけ、この時期のかの地を見てみたいと思うが、なにしろ寒いだろうなァ。


 こんな根性じゃ、ダミだこりゃ。




2025/11/01

覚悟せむ寒気の前の神無月

 



 11月はまだ秋だろうかもう冬だろうか。


 気象庁は”晩秋である”と言っているようだが、歳時記は”もう冬だよ”と言っている。ど

っちかにキッパリ決めてもらわないと困惑するが、しかしよくよく考えてみれば、暦と季節

がぴったり一致する、なんてことはまずないのだし、九州と北海道では、季節の実感も大

いに違うだろう。だからそんなことはちっとも気にすることではない、かもしれない。


 しかし11月ともなれば、ちょっと先の方の寒さがやはり気にかかる。今夏のように死ぬほ

ど暑いのはむろん嫌だが、これから冬になってやっぱり死ぬほど寒い、というのも御免こ

うむりたい。まあ寒さもほどほどにしてもらって、小春日和の冬だとよろしい。



 冬が近づいたので家の周りの隙間の、駄木の枝を切っぱらうことにした。駄木である上

に、いいからかんの剪定を重ねているので、見るも無残なものばかりだが、それでも一応

散髪しないと、あっちに延びこっちに曲がって、まるで勝手気ままな蓬髪になってしまう。


 先ずは北西の角のミョウガ、枯れかかった茎をエイヤっと引き抜く。半分枯れているから

簡単に抜けてしまう。いつだれが植えたんだか、だれも知らないが、夏の間芽を摘み取っ

て薬味にすると、独特の香りが芬々と薫って、そうめんや蕎麦がうんとうまくなる。


 それからツツジのツンツン伸びたところを刈り揃える。あんまり深く切ってしまうと、来春

ちっとも花が咲かなくなっても困るから、慎重を期す。それから山茶花である。これはもう

花芽が出ているのだが、徒長枝がピンピン立っていて見苦しいからカットする。が、勢い

余って花芽が着いた枝をごっそりと切っぱらッてしまった。困ったもんだ。



 今年は永く咲き続けたサルスベリも丸坊主にする。枝が細いから楽ちんのようだが、細

かい枝が多くて、やがて草臥れてきた。もう止めたくなったが、いくら何でも、やりかけの

ほっぽろかしではいかん、と思いゆるゆると休んでから、やむなく再開。


 次は南東へ廻って、蝋梅と金木犀。蝋梅も花芽ができかかっているが、これはもう、もう

伸びなくていい、と言ってるのにワッセワッセと伸び放題だから、躊躇なくバッサバッサぶ

った伐る。これですっかりエネルギーを使い切ってしまったらしく、もうよれよれ。


 それで休んで最後、金木犀にとりかかる。枝には黄金色の小さな花がまだいっぱい着い

ていたが、もうなんの香も放たない。だからこれも遠慮も配慮も一切なしでゴンゴン伐っ

た。そしたら見にくいトラ刈りになって、あまつさえ形が大歪みに歪んでしまった。ああ!

 



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