2025/09/26

宍道湖の水澄んで空うろこ雲

 




 宍道湖はシンと静まっている。


 水の上に、アサリ漁だろうか、小舟が何槽か見えて揺蕩うともなく浮かんでいる。なに

もかも静かに佇んでいて、まるで太古の湖の太古の魚取りを思わせるような、一幅の絵

が車窓の向こうに展開している。ここでは音がどこかにそっと隠れている。


 松江はそもそも静かな街なんだそうだ。松江大橋を渡ってゆく下駄の音が、対岸でも聞

こえる、というような誇張もあるが、それぐらい騒音がないということだろう。車はもちろん

走っているけれど、あのいやらしいタイヤの軋みや走行音が不思議に聞こえない。



 昨晩は松江駅の近くに泊まったが、夜8時を過ぎると大通りでさえ森閑と静まって、なに

やら寂しいような気分になった。せっかくだから街に繰り出して出雲蕎麦を試し、せっかく

ついでに日本酒ももちろん飲んだ。蕎麦屋さんの店内もしっとり落ち着いている。


 いささか勢いがつき二軒目に入ると、ここもまた静かな居酒屋であった。トウキョウのよ

うに、狭い空間に詰め込むだけ人を御詰め込んで、という事がないから、わあわあ、がや

がやの人の声は聞こえない。ただ静かなときがゆったりと流れるているだけだ。



 宍道湖の北岸、つまり島根半島の南麓を出雲に向かっている。ときどき車窓の草の向こ

うに一畑電鉄の線路が見え隠れしているけれど、まず電車そのものはの姿を現さない。

道路は緩やかにカーブを描いているが、民家や集落もまず見当たらない。


 出雲はなにしろ、神様がおわします處、やたらに騒ぎ立ててはいけないようだ。森閑と静

まった中で、古代からの神々がゆったりと閑にお過ごしになるのだろう。松江といい出雲

といい、そういう神々が鎮まるところにちょうどいい、という感じがする。


 出雲は遠くそして懐かし。




2025/09/25

あぜ道を貫いて燃え彼岸花

 



 彼岸花はただひたすら真っ赤に咲く。


 葉っぱもなく、いきなり茎が立って天辺に真っ赤かだけの、なにやらワチャワチャした花

を咲かせるが、よくよく見れば、造花の妙、エラク複雑な形を呈している。どれが花びら

で、どれが蕊なのか、トンと見当がつかないが、でもまあ、花は花だ。


 この花は別名、曼殊沙華ともいう。なんのこっちゃ、と思ったので検索してみるとサンス

クリット語の manjusaka の音写だそうである。その大元は法華経というが、この花を地

方ではシビトバナともいうのは、その辺りからの、そんな関係なのかもしれない。



 西武池袋線がいよいよ秩父山塊に入るという裾野に、「高麗」という駅があり、近くに巾

着田がある。これは高麗川がぐるりと円を描いて蛇行している奇怪な地形だが、その円

の中が田んぼだったのであり、ここにものすごい数の彼岸花が咲いている。


 林の半日陰に、まるで真っ赤かっかの絨毯を広げたように、びっしりと隙間なく、彼岸花

が埋め尽くしていて、その季節になるとトウキョウあたりからもわらわら人が押し寄せる。

そしてその時だけ、入園料をぶったくるのである。まあ、秋の風は爽やかだし・・・



 「高麗」という名前からもひょっとして想像できるが、この辺りは昔の武蔵国高麗郡であ

った。奈良時代、半島から来た高句麗人が集められた、という歴史がある。それまでは、

高句麗の渡来人(難民)は付近に散在していたが、この地に集住させられたらしい。


 この時の渡来人代表者、高麗王若光は、高麗神社に祀られ、その墓と言われるものが、

近くの聖天院に今も残っている。なにゆえこういう措置をしたのかトンと分からないけれ

ど、日本人はこのころから、ガイジンを利用すれども胡散くさがる、だったのかナ。


 彼岸花は素知らぬ顔で風に揺れている。




2025/09/24

ふと気づき香りに寄るや葛の花

 



 嫌われモノの葛だが、花はまた別。


 大繁茂の葉裏にひっそりと隠れるように咲いている。花の色は鬼の葛に似合わしからぬ

可憐な紫色で、野の花に似つかわしく思える。試みにその花をクンカクンカ匂ってみると、

ほんのかすかだけれど、実に清々しい香りが周りに漂っている。


 その香りは秋の澄明な水のように幽かに漂っていて、沈丁花や木犀のように「どうだ、い

い香りだろう、嗅ぐべし! 」というような押しつけがない。人知れず咲いた花から、人知れ

ず香っているので、ややもすると花も香りも、気付かぬまま通り過ぎてしまう。



 香りがある花、無い花、いろいろあるけれど、あの香りは鳥や虫を引き付けるためのも

のだろうか。どうも遅くに出現したヒトのためではよもやあるはずがないと思える。なにし

ろ鳥や虫は、いや動物すべて、匂いで食えるものか食えないものか、判断している。


 とすると、動物どもは匂いに命を預けている、と、こういうことになるのだろう。だからみ

な(動物は)、匂いに極めて敏感で、猫なんぞは食えそうもないと分かれば、プイっと横

向いてしまう。あれは食わず嫌いなのではなく、食ったら死ぬ、と思ってのことだろう。



 それに比べ、われらホモサピエンスは匂いに鈍感にできている。食えるものかそうでな

いものか嗅ぎ分ける、という動物としての基本のキをすっかり無くしてしまったらしい。だ

から、なんでもかんでもひとまずは食ってみる、という作戦に出たようだ。


 かくして・・・茸を無暗に食って七転八倒し、フグをやたらに食らってあえなくなったりして

手痛い勉強を重ねてきた。その結果、ますます匂いに鈍感となり、その代わり、クサヤを発

明し、鮒ずしを作り出し、しょっつるを発見した。どっちがいいかなあ!


 セイジ家の嘘っぱちを嗅ぎ分けられたら。


 


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